To use too much technique for phrasing


 よくできた恋愛ものの映画を考えてみよう。

 フランス映画のような奴をね。

 バーで・街角で、花屋の店先で、男と女はいろんな言葉のやりとり、恋の駆け引きを繰り返す。
 研いだばかりのナイフのような鋭い言葉、
 もぎたてのトマトのようなみずみずしい言葉、
 悪臭を放つ言葉、
 キスよりも甘い言葉、
 そして希望に満ちた言葉。

 『名台詞』ってのは大体こういう場所で生まれるんだ。オリジナリティあふれる文学的な表現というのは映画の脚本においては欠くべからざるフレイバーである。

 最近知った話でありますが、昔のフランス映画には、台詞だけを扱う「会話脚本家」とでも言うべき人がいて、オサレ気な台詞を練り上げていたらしいです。さもありなむですね。

 だが、あくまでフレイバーはフレイバーだ。
どんなに小粋な台詞のやりとりがあったって、その台詞のやりとりの落ち着く果ては「I Love You」だったり「I Need You」だったりする。
 そう、がっかりするほど平凡な。

 でも、一番伝えたいところはやっぱり「I Love You」だったり「I Need You」だったりするんだな、これが。




 僕らはプロミュージシャンが演奏した録音を聴き、そのフレーズをコピーしたりそのソロのアナリゼを行ったりする。

 フレーズをコピーする際、理論的に難解な箇所、ひねったフレージングなど、とかく小難しいところに僕らはついつい目を奪われがちだ。

 しかし、そういう聴き方から離れて、ソロの流れ、起承転結に心をゆだねてみよう。そうすれば、実は、一番盛り上がっているところは小難しいフレーズを刻んでいるところではなく、「ぎょえ〜〜」と高音でシャウトしているところだったりする。

 譜面に落としてみると、確かになんの面白みもないが、そのソロでの中心部はやっぱりそこに間違いないのだ。

 逆に言うと、譜面の音韻情報以上の何かを、ミュージシャンは演奏にのせている。それこそが自動演奏機の発達した現在、ミュージシャンの存在意義と言ってもいいかもしれない。

 

 「I love You」を効果的に言うことが出来るSituationに持っていくことも難しい。

 しかし、「I love You」といわなければならないところできちんと「I love You」と言うということは、実はそれ以上に難しいことなんだ。