Skill up

—上達の意義?

問い:私は大学のビッグバンドに所属しています。
同回生の男子の中には「プロになってやる」なんて言っている人も居ますが、正直にいうと、私にはそこまでの覚悟はありませんし、それなりの大学に入ったんだし、それなりの就職もしたいと思っています。
 つまりは、今楽器をやっているけど、それは一生の仕事ではないわけで、あくまで趣味の範囲の話なんですよね。だから、練習をしてうまくなっても、それに何の意義があるのか、と思っちゃったんです。
 一旦そう思うと、練習のモチベーションが下がっちゃうんですよね……。

 はい、非常に根源的な問題ですね。

 大体男子は馬鹿ですから、猿のように練習をし、その結果見事な留年ぶりや退学ぶりをみせることがありますが、逆に乾坤一擲、プロになったりするような場合もある。女性で大学を中退したり留年したりする比率は男性に比べると格段に少ない。

 これは、女性医師の話でも一部触れましたが、女性は男性よりも過剰適応を強いられているがゆえに、いわゆる通常のコースから外れることに対する心理的ブレーキが大きいのです。女性は多くの場合、同条件の男性よりも「ちゃんと」していることを暗に求められている。

 ましかし、この場合問題は性差の方ではなく、練習すること、上達する事に対する意識の持ち方ですね。



 モラトリアム期にある器楽奏者の多くは自分のキャリアパスとしてではなく、あくまで課外活動として音楽活動をしていると思います。

 この様な人にとっては楽器の練習、音楽の練習に多くの時間を割くことは、他の(勉学、他の実技)トレーニングに要する時間を奪っていることになる。つまり「練習」は機会喪失という意味ではマイナスである。

 よって「なぜ練習するのか?」という命題を自問したことがない人は、少数派だと思う。いっそのことプロミュージシャンになるのであれば、その価値観が逆転し、練習をすることがプラスとなるわけですけれども。


プロになる?

 音楽で身を立てようか悩むのは、プロミュージシャンになるということと、普通に就職することを天秤にかけるということです。

 これは純粋にバランスの問題です。ミュージシャンとしての技量が優れていれば、プロへの道が優位でしょうし、一方の案である「普通に就職する場合」の条件がよければ、プロミュージシャンに「ならない」方が有利でしょう。

 もしあなたがこの選択肢に悩んでいるならば、逆に言うと、どちらのビジョンも実現する見積もりがあるんでしょうね。

 凡人にとってはプロミュージシャンへの道というのは絵空事に近く、選択の余地はないはずですから。

 逆にプロミュージシャンに強い方向付けを持たざるを得ないのは、代案である「普通の就職」に大きな期待が出来ない場合です。

 音楽専修の専門学校生や音大生などはそのような状況のよい例ですね。また、例えば、学生生活を音楽に捧げているような輩は、しばしば留年・退学に至ることがありますが、この場合、代案である一般就職の条件を自分で下げていることを意味します。いわば退路を断つ形で、音楽の道に進まざるを得ない状況に追い込まれる場合がある。

 

 私は神戸大学の軽音楽部出身でしたが、一応痩せても枯れても国立大学ですから、少なくとも音楽専修の専門学校に比べると、普通の就職という選択肢にも十分な魅力がありました。

 同様に、山野ビッグバンドジャズコンテストの常連校というのは、阪大であったり早稲田慶應であったりと、やらしい話ですが明らかに偏差値と正の相関があります。

 新卒での就職の条件は学歴に依存するというドクマが未だに有効であるならば、こうしたコンテスト上位常連校の高い音楽演奏スキルを持っている(はず)の学生達は、ミュージシャンへの道、一般就職への道いずれにおいても、多くのアドバンテージを有していることになります。

 このような大学生にとっては、ミュージシャンになるという選択肢も、そうでない選択肢も十分に魅力的であることは間違いない。だが、基本的には選ぶことができるのは一つ。

少なからぬ数の楽器奏者達がミュージシャンになるか否かという選択で身を焦がした経験があると思います。

 こうした状況に陥っている若者に、多少なりとも希望を抱かせる(もしくは道を誤らせる)事実は、現在のプロミュージシャンがすべて音大とか音楽専門学校卒業生で占められているわけではなくて、普通の学部に入学したけれども、プロミュージシャンの道に進んだ人間が少なからぬ数を占めているということでしょうか。

 

 プロミュージシャンと呼ばれるようになっても、それで悠々自適に食える人間はそれほど多くはないという事実もあります。

 もちろん、経済的インセンティブがすべてではありません。が、人生の選択において大きな要素を占めていることも否定出来ません。最終的には、扶養家族を持ちながら音楽に専念する生活を送れる人間は一握りです。

 純粋に経済的な側面からみる限り、残念ながらミュージシャンはそうでない道よりも低い生涯賃金に甘んじるということを意味します(もちろんこれは統計的な傾向に過ぎません。一発当たればでかい。けれども、それは確率的には非常に低いという現実があります)。「好きなことをやって生きていく」というプライスレスな価値にどれだけ重きをおくことが出来るかにかかっているでしょう。

 

 冒頭の問いに戻ります。
 実際のところ、プロミュージシャンなんて、そうそうなれるもんではありません。(だからこそ僕らはプロフェッショナルなミュージシャンを尊敬するのです)。しかしその事実は、しばしば、練習に向かう我々を意気阻喪させます。

 今ひとつ練習が伸び悩んでいたりする時には特にそうですし、ゼミのレポートや試験など「本業」で忙しくなった時などにもますますそう思うわけ。

 なーんでこんなに練習しているのか。

 じゃあ、プロにならないのであれば、それなりの練習でいい?
……それは何か違うような気がします。

 好きなんだからやってんだろ?
  見返りを考えてすること自体が間違いなんだよ。
……確かにそうかもしれませんが、その考えもちょっとナイーブ過ぎるように思います。そんな綺麗事では自分の心を納得させられることはできません。

 趣味なんだから、所詮どんなにやっても自己満足以上のものはないよ。
……あー!いわないで!それいわないで!

 生涯の仕事を音楽以外の道に定めようとする人間は、何を拠り所にして練習すればいいのでしょうか?


クラブは誰のものか?

 あくまで個人の趣味嗜好として考える限り、答えはでません。しかし今度は少し視点を広げて、あなたが今所属している団体の事を考えてみましょう。

 あなたは今、どういう形でジャズに関わっていますか?
 大学や高校のクラブに所属している?
 個人的に先生に付いてレッスンを受けている?
 アマチュアのビッグバンドに所属している?
 それとも、全くフリーな立場で独習している?

 私は医学部でしたが、全学の軽音ジャズというところに所属していました。

 説明しますと、医学部というのはキャンパスも別で、6年間同じ顔をつきあわせているゆえに、医学部の中にもそれぞれ(小規模の)クラブがあるんです。多くの場合、医学部生は医学部のクラブに入ります。非医学部のクラブに入部するのは少数派で、こういう連中は医学部生からみると、「全学」のクラブに入っているという言い方をするわけ。

 母集団の人口が全然違うのと、余暇時間が全然違うため、同じジャンルのクラブを比べると、医学部のクラブよりも全学のクラブの方がレベルが高いことが多い。(例外的に医学部のクラブの方が強いクラブもあったようですが)

 僕の居た全学の軽音というのは全部員を合わせると優に100人を越えるという、えらく巨大なクラブでした(いまはさらに巨大になっているらしい)。

 その中で、もちろん4年間で順当に卒業する人間もいましたし、留年、退学という、大学特有のエアポケットにはまる人間もいました。ごく少数ですが卒業後プロミュージシャンを目指す人間もいました。

 これほどかように、一言でクラブといっても、その中には、非常に本格派の人間から、ライト志向の人間、いろいろな考えの人間が混在していました。

 僕はその中では比較的本気でジャズに取り組んでいた人間(後輩が敬遠するような)でしたが、こうした超巨大なクラブというものは、いわば企業のような組織に近しい性格を持っています。

 では、もしクラブを企業として考えると、その企業目標は何なんでしょうか。

 プロを輩出するための養成学校?
 「音」を「楽しむ」ための場?

 冒頭の「問い」はあくまで個人に根ざしたものですが、クラブという全体でみても、個人の上達というものの意義をどう考えているかは、クラブの存在原理にも関わる非常に重要なもので、多くのクラブでは明文化はされていないまでも明確な組織目標を暗黙の了解として持っています。

 例えば、いわゆる「体育会系」のクラブを例に挙げてみましょう。例えば甲子園の常連校。力を持った体育会系のクラブでは、実力による厳然としたヒエラルキーがあります。レギュラー選手には絶大な権力があり、すべてにおいてレギュラー選手が最優先されます。例えば一年生や、実力の低い者は球拾いなどの雑用や基礎体力トレーニングしかさせられず、広大な練習スペースはレギュラーに優先的に割り振られるといった風に。こうしたクラブでは、上達することに強いインセンティブがありますし、逆に上達出来ない場合にクラブに居続けることにあまりメリットはありません。結果として、膨大な数の一年生に比して少数のレギュラー学年という、ピラミッド型の人口ピラミッドを描きます。

 このような「勝つ」ことを目標に置いているクラブは、端的に言ってジニ係数の高い組織です。つまり上位権力による格差構造が顕著ということ。

 一方、いわゆる「サークル」などではこうした格差、差別がありません。組織はフラットで、上手い下手で待遇が異なることはありません。この様な「楽しむ」ことを目標に置いているクラブでは当然ながらジニ係数は低い。その結果練習をしろという圧力がなく、居心地がいい反面、当然のことながら各人の上達の度合いは各人に委ねられます。そしてその成果は平均すると低いレベルに留まります。

 そのクラブの性格はジニ係数の高低で、ある程度推測することができます。上層部に絶対的な権限、そして旨味があるクラブなのか、それとも、上手い下手を一切問わず、完全にフラットな組織なのか。そして、そのクラブにおいて、学業との両立はどのように考えられているのか。「留年退学上等」というのが優勢な意見なのか。

※軽音部もしくはジャズ研が「プロを輩出するための養成学校」であるべきではないのは明らかです。あくまでクラブは大学という枠内の課外活動として大学の庇護下にある。音楽を専修する学科でもない限り、プロ養成を公言することは、入学時に暗黙裏に生徒と大学の間で交わされる教育契約に離反した行為です。つまり大学の教育理念に背信していることになります。

 しかし、あくまで「余暇」だ、ただ楽しくさえあればいいんだ、というコンセプトでは、人は育ちませんし、微温のような環境は、だらだらするのには適当ですが、やはり物足りないのも事実です。ある程度厳しい練習を越えた目で言わせてもらえば、上達してはじめて見える世界もある。
 

 まず、言えることは「勝つ」ことに強いインセンティブのある系の中では、そしてその「勝ち負け」がトレーニングによって達成できる類のものであるならば、トレーニングそのものが系の中に存在し続ける手段及び目的として強力に方向付けられるということです。

 ビッグバンドの世界では、山野というコンテストがあり、参加し、順位付けを競う。これは上達のモチベーションを維持するにはよい方法です。

 多くのクラブでは、「なぜ(="why")上手くなる必要があるのか」という問いに向き合うことなく、有無をいわさずビッグバンド競争に参加することで「どうやって(="How")上手くなるのか」という問いに個人の問題意識をそらすことに成功しています。

 実際、殆どのクラブでは、部員の上達の原動力のためこうしたコンテスト参加を利用しているといっていい。言い方を変えると、こうしたコンテストに参加することによってレベルを保っている、ということになる。

 「戦争」はいつの時代も選別の最良の手段です。レベル維持と選別にビッグバンドを用いることは、「上達」という意味論に向き合うことなく実行可能な処方箋です。(「上達するのはなんのため?」「勝つためさ!」)

 軍人が軍人であるためには哲学的に問題に悩んではいけません。方法論レベルでの考察は行いますが、根本的な考察が希薄であるのは、ビッグバンドがビッグバンドたるには仕方のないことかもしれません。

 逆に言うと、同じ団体に居続けることが約束されている限りにおいてはこのことにあまり疑問を感じないで済みます。例えば学生ビッグバンドであれば、卒業が近づく三年生・四年生の木枯らしが吹く季節あたりに、こうした疑問を思うことが多いです。


個人としての悩み

 ビッグバンドはあくまでもビッグバンドであり、個人のジャズマンの上達とはパラレルではないことです。つまり、個人の救済にはならんということですな。

 ひとたびビッグバンドから離れた場合、個人レベルでの上達の意味は、あなた個人の問題に帰せられます。ビッグバンドが主軸であるクラブでは、こうした個人の問題を解決する言葉は、用意されていません。

 その証拠に、ビッグバンドをしている人間の多くは、少なくともそのビッグバンドで期待されているスキルまで器楽能力を向上させたあとは、上達曲線においてプラトーに達します。

 

 一人で音楽を続けていくためには、冒頭のような問いに独りで向き合う必要が生じます。しかし明快な答えを出せる人間はそれほど多くはない。

 目標がある時には、その目標に向かって「どうやって上達するか」ということだけ考えていればよいのですが、他人に決められた目標が喪失してしまった場合、「なぜ上達するか」という問いが自分にのしかかってきます。

 一体我々は何のために上達しているのか?そして、その上達は、何か役に立つんでしょうか?

その2に続く

(Feb, 2007初稿)