Groove and our physique

—リズムの起源と身体性



その1:リズムの起源と身体性
その2:リズムへのアプローチは文化によって異なる
その3:「拍」の非ユークリッド性

身体性と普遍性

 我々は自分たちの属性に普遍性があると考えがちだが、意識するしないに関わらず身体的な制約の影響下にある。我々はそうやすやすとは自身の肉体の軛からは逃れられない。

 たとえば美術に関して言えば、もし我々がこのような身体を持っていなければ、女性の体のような有機的な曲線に美を感じることがなかったかもしれないし、つるつるとしたテクスチャーが美の標準とはならなかったかもしれない。また、数学に関していえば、もし我々に二本の手に5本ずつ、計十本の指がなければ、十進数を用いた数学は生まれなかっただろう。ちょっと考えたらわかるが、10と言う数字は、あまり便利ではない。他の数字との親和性を考えると12進数の方が理にかなっているような気がする。そして我々が5本ずつの指を持っているのは、おそらく脊椎動物の上肢の骨の初期配置によるもので、そこに必然性を見いだすことは難しい。

 この手の類推はSF小説などではよく見られますが、果たして我々が普遍的とみなしているものはどこまで普遍性があるのか、逆にいうと、身体性は普遍的と思われる属性をどこまで修飾しうるのか、という命題は我々人類の永遠のテーマと言えましょう。

 音楽についても同様で、我々がどのような音楽に美や快楽を感じるかはおそらく我々の身体性に大きく規定されているはずである。


平均律と西洋精神史

 しかし音楽に関しては、そのような身体性に逆らい、普遍的な論理性を執拗に希求した歴史がある。その最たるものが、16世紀〜17世紀のバロック音楽の中で形成された平均律理論だ。

 平均律理論を完成させたのはバッハであるが、これが発見された経緯は後代の我々には窺い知ることはできない。彼も同時代の知識人に漏れず、ルネッサンスから近代への移行期の時代精神である、デカルト思想の影響を大いに受けていたのではないかと推察される。「心身二元論」は、身体性から離れた「純粋理性」を求める傾向が強く、そのことはバッハの音楽の理論的背景と、おそらく無縁ではあるまい。

 バッハの和声法、平均律理論は極めてデカルティックである。
 平行移動が可能な、すなわち離散数として換算可能な音階のシステムを考案しえたのは、音楽をデカルト平面的に表現できないかという要求が根底にあったのだろう。

 左図に示される、有名な5度圏の図を完成させた瞬間、その論理的な整合性の美しさにバッハは法悦に近い満足感を得ただろうと思われるが、実際には平均律によって奏でられる音階は不協和音である。わずかに歪みがあり、綺麗にハーモニーは奏でられない。

 ということは、ごく些細なレベルであるが、平均律の理論では、観測的事実よりも論理的整合性を優先させたということになる。逆に言えば、バッハにとっては、精確さをある程度犠牲にしてまで、機械論的音楽モデルを構築することに大きなプライオリティがあったということが窺える。


リズムの基本単位

 先ほど述べた平均律は、和声学に属する。つまり、ハーモニー。

 ハーモニーとか、音の高低は、楽譜でいえばy方向の要素として表記される。この場合、経時的要素はx方向ということになる。西洋音楽では、この(x,y)平面によって楽譜を記譜するわけで、まさしく基本システムは、デカルト平面そのものなのである。当時のテクノロジーの制約を受けてはいるが、極めてデジタルなコンセプトが、楽譜というシステムに体現されていることがわかる。

 このように、西洋音楽は、少なくとも楽譜のレベルでは、極めてデジタルで、明快な論理の元に構築されている。デカルト哲学の心身二元論の考えは、むしろ身体性に関する部分を排除し、純粋に唯脳的な部分を純化する傾向が強いが、そのことはクラシックにおいて、ビートに関する概念がやや希薄なことと関連があるのかもしれない。

 とはいえ、"digital"という言葉が、「指」という言葉からきているのと同様、抽象的な事物すら我々の身体性とは無縁ではない。西洋音楽の楽譜によって表されたデカルト平面のX成分の基本単位は、おそらく我々の心臓の鼓動である。

 西洋音楽では、最小単位は「拍」で、その集合である「小節」を基本単位として譜面が構成されている。等間隔の周期的なパルスを経時的な里程として認識する形式は、心拍動のそれと酷似している。古典音楽初期の指揮の中には、重い杖のようなものを床に打ち付け、その叩打音で拍をとった者もいたという事実は、心拍動とのアナロジーをよりプリミティブな形で示してはいないだろうか。

 このように、一見普遍的、非身体的に見える西洋の音楽システムといえども、我々の身体性の制約をやはり受けている。


 身体性の枠を離れて

 ではもし、我々の身体性の制限を取り去ると、どのようになるだろうか。少し思考実験をしてみよう。

 おそらく心臓を持たない原生動物に関しては我々が思う様なリズムの概念はないだろう。そもそも、時間という概念自体があるのか疑わしい。もし彼らに感じられるリズムがあるとすれば、アクションポテンシャルの律動か、潮の変化のような温度やpHのゆるやかな変化などだろう。我々の体でも、「サーカディアンリズム」というが、おおよそ一日周期の変化がみられる。これは液性因子の日内変動によって調節されているのだが、これと同じような緩やかな変化を、原生動物は感じているのだろう。

 我々と同様に、もう少し臓器分化が起こった多細胞生物に関してはどうだろうか。我々脊椎動物は、血液循環を単一サイクルのポンプ機構によって維持しているが、循環システムとして、これが絶対的な解決策ではないのは明かである。

 我々のシステムにはいろいろな欠陥がある。まず、体内にポンプが一つしかないこと。ポンプが単一であると循環血液量が限界に達しやすいため、大きすぎる個体を維持するには不向きである。海中でシロナガスクジラの30mを維持するのがせいぜいである。

 もし、体分節の一つ一つに小規模のポンプ機構を複数持つような構造であれば、より巨大なサイズ、たとえば数百m以上の個体も許容できるかもしれない。

 また、我々のポンプ機構のもう一つの欠陥は、流速が不安定であることが避けられないことだ。間断なく加圧と停滞を繰り返すので、流速は絶えず変化し、そのため乱流を生じる。そのため余分な振動を生むし(血管のBruit)、管腔内のトラブルも生じやすい(血栓など)。もしタービンのような回転系の加圧還流方式が許されるなら、個体全体に及ぶ振動のノイズは生じにくいはずだ。

 そもそも循環を血液に委ねるのだって、見直してよいはずだ。栄養の補給を内側に隅々に張り巡らせた液体をベースに行うことに妥当性があるわけではない。あれは、我々が水棲動物から進化を始めたからであって、例えば高圧環境下で、気体内に様々な物質が存在しうるような条件(例えば木星とか)であれば、気体から栄養をとることだって可能だと思う。

 こうした「基本デザインの全く異なった生物」を想像するのはSF作家の専売特許であるが、もし別の星にそういう生物が存在し、そうした生物から知的生命体が誕生した場合、彼らの作るであろう音楽はどのようなものになるだろうか。我々が感じるようなビート、グルーヴというものが彼らにも存在するかどうかは極めて疑わしいと思う。

 同様の理由で、植物にもビート(拍動)はないだろう。これは、言葉通りではある。

 ビートに普遍性はない。

 ビートとは不完全にデザインされた筋肉の塊である心臓が発する振動を、不完全な体が共振しているものを感じているに過ぎない。

 つまりそれは車マニアがエンジン音の振動音をありがたがるのに少し似ている。

 しかし逆に言えば、車マニアにとってのエキゾーストノートと同様、またはそれ以上に、ビートは我々にとって重要な地位を占めているということも出来るのである。


その2へ続く



(Jun,2006 初稿)