Groove and our physique 2

—リズムへのアプローチは文化によって異なる



その1:リズムの起源と身体性
その2:リズムへのアプローチは文化によって異なる
その3:「拍」の非ユークリッド性

 さて、前項では、我々の音楽は我々の身体性にかなり拘束されているということを書いた。

 西洋楽典にもビート、テンポという概念は当然あるが、畢竟要約すれば、西洋古典音楽では、リズムとは等間隔に刻まれる拍動に過ぎないとみなされている。もちろんアッチェラランドとか、リタルダントなどのテンポを修飾する特殊記号で調節できるのだが、それ以外の部分では原則として、楽譜は小節という等価のユニットの積み重ねによって記述される。つまり、基本的には規則正しい時間の流れが続くというドグマから逸脱することはない。

 前項で少し書いたが、デカルト平面の条件としては平面のx要素は絶対的な尺度、つまり単位によって記述される必要がある。一つ一つの拍が伸び縮みすることが容認されないのはおそらくこのためだ。和声学と同じく、この要素に関しても西洋音楽理論は、パトスよりも論理的整合性を優先させたとしか考えられない。

 もちろん実際の演奏においては、かなりテンポは揺らいでいる。むしろそうした揺らぎによって表情をつけていると言える。楽譜と演奏の間にはそういう意味でかなり懸隔があるが、おそらく身体性と純粋理性との間のギャップは、そのような形で埋められているのではないかと思う。

 リラックスした状態の心拍は、確かに西洋音楽での拍と同じ挙動をとる。おそらく西洋音楽はこのような精神状態を理想として発達したのではないかという想像の余地があるが、本来あるはずの心拍の変動=ゆらぎは論理的整合性のために切り捨てられた。

 但し、他の文化には、このようなアプローチをとらなかった音楽文化がいくつかあるようである。必ずしも西洋文化のアプローチだけが正解ではないのだ。


西洋音楽以外のアプローチ……ガムランなど

 バリのガムランなどは、そういった西洋音楽とは別の理論体系を示す最も良い例ではないだろうか。

 ガムランは、西洋音楽という尺度でみる限り、ピッチも不正確でノイズの多く、シンクロニティの浅い、文明度の低い洗練されていない音楽に見える。だが、そうした先入観から離れて、音に身を委ねると、揺られるようなとしか形容しがたい身体的な快楽が内在する音楽であることに気づく。

 おそらく西洋音楽の基盤となる「等間隔の律動」は生体にとっては必ずしも自然ではないのだろう。確かに、1-2分、せいぜい5分くらいの間の短時間なら、(精神状態にもよるが)心拍数は極めて安定している。しかし実際心拍動は意外に変動するものだ。精神状態が、内在するアドレナリンやノルアドレナリンなどの自律神経調節因子を修飾するにつれて、心拍はその興奮状態に沿って伸び縮みする。ガムランの理論体系は、そういった中長期の時間変化こそに着目して発達した様に僕には思える。

 その楽団の作り出す精神的な波に上手く乗ることが出来れば、音楽とシンクロする様な快楽を得ることが出来るだろう。楽団の構成員も、演奏と共に高揚感を感じるが、それとシンクロすることが出来れば、同様のビートの変化が生じ、観客も同様の高揚感を受け取ることができる。演者の間でリズムが必ずしも一致しないのは、そういう波に乗る乗りしろを多く作ろうという試みなのかも知れない。

 実際、ガムランでは「曲」という概念は西洋音楽の小品と比べて希薄であるように思える。わりと長い時間演奏されてこそガムランは真価を発揮する。小品のガムランは滅多にみられないか、あってもインパクトに欠けるのは、まさにガムランは比較的長いタイムスパンを見据えて演奏されるべき音楽であるということを示してはいないだろうか。

 ガムランを引き合いに出したわけだが、おそらく民族や文化によってそういった快楽へのアプローチは異なる。

 アフリカのポリリズムなども、ガムランと似て、トランス状態へ導くことを目的に作られたリズムサウンドのように思う。もちろんこれも西洋音楽の枠では楽譜にしにくい。が、その譜面にしにくさは、ガムランのそれとは異なっている。トランス状態へ導くプロセスだって、おそらくは異なる。

 日本の暴れ太鼓や盆踊りだってそうで、リズムは結構不正確だし、グルーヴ感はないが、別の形でのトランス状態を作りだそうという意図は明白である。歴史上も時に熱狂的な踊りの流行が散見されるが(ええじゃないか運動など)、これは日本の舞踊・音楽文化にもそうした力が内在していることを間接的に証明しているとはいえないだろうか。

 日本の浪曲などの譜面をご覧になったことはあるかもしれないが、いわゆる西洋音楽の音曲とは全く異なるコンセプトによって作られていることは明白である。

 西洋音楽は、たとえば平均律と純正律とのハーモニーのわずかな違いや、心拍動のゆらぎと言った要素を「誤差」として切り捨て、デカルティックな論理的整合性を優先させたが、こうした西洋音楽の「論理」が絶対的優位であるわけではない。西洋音楽は人間の身体性の一部分しか切り取ってはいない。

 むしろ普遍的なのはあくまで人間の体であり、西洋音楽にて切り捨てられた誤差ともいえる部分こそに着目して音楽を作った文明もある。そこにこそパトスの鍵が潜んでいると言える。


西洋古典音楽から現代への変遷

 少なくとも、現在のポピュラーミュージックで重視されているビートやグルーヴという概念は、もともとの西洋古典音楽の楽典にはない。現在の音楽は創作に際し、少なくとも和声学や小節などの記述に関しては西洋の楽典に拠るところが大きいが、ビートやグルーヴに関する要素は正確には記譜できない。

 現在に至るまでに、何かがあったのだ。

 結論から言ってしまうと、西洋音楽が現在のポピュラーミュージックに変遷する過程で、リズムに関するブレイクスルーが二つあった。これらの変化はいずれも西洋音楽におけるデカルト的ドグマに対する挑戦(再評価、かもしれない)であった。

 一つは20世紀における特に黒人音楽の要素との融合。
 即ちスウィング、ジャズ、R&B、ソウルなどの要素である。現在のポピュラーミュージックで重視されるグルーヴなどの要素はこの時期に取り入れられた。これらの要素は西洋古典音楽のドグマの一つである、一つの拍をスクウェアに等分割してゆく手法に対する身体論的再認識であると言える。

 もう一つの変化は、これは自分があまり詳しくないので正確な時代はわからないが20世紀末から現在の、ターンテーブル、サンプラーを用いたループ系サウンドがもたらした変化である。これは現在も変容を続けているが、小節という非可変な構成要素に対する再検討である。



 ちなみに、ポピュラーミュージックを絶対視しているわけではないが、ポピュラリティを持ち得た音楽とは、その時代において敷衍している音楽の中で最大公約数的な要素であることは間違いない。ポピュラーミュージックの変遷から、時代性を通してみることが出来ると思うわけだ。

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(Jun,2006 初稿)