Available noteの謎

問い:使っていい音、使ってはいけない音、というのがよくわかりません。
 自分がアドリブを吹いたりする時に、「あっこの音、はまっていない!」と思う瞬間はあります。おそらくその音の使い方が不適切なんだと思うんですけれども、なぜその音がいけないかが解らないんです……
 でも、理論書をみて"Available note scale"とか書いてあるものの範囲内でも、はまっていないなと感じる時があるんです。よくわかりません。


 例えばブルースの場合を考えてみましょう(※)。
 Fのブルースの場合 Fのキーの音は全部使えます。これで8個。

 ブルーノートスケールを使えば、Ab、B(Cb)、Ebが加わり、さらに使っていい音は3つ増えます。するとこれでもう10個の音が使えることになってしまいます。一オクターブ12個のうち10個が使えるのでは、原理的にどの音も使ってもよいと言ってもいいのではないでしょうか?

 ちなみに、上の音列で出てきていない音はF#とDbですが、これらも、半音のアプローチノートかなんかで処理すれば、使っていけないことはありません。

 では、使ってもよい音、いけない音というのは何なんでしょうか?

 観念的に理論を勉強しようとする場合、必ず通る道ではないかと思いますが……

※ 厳密にいうと、7thの構成音であるEbはFのキーの音ではありませんし、Eの音はブルースのトニックスケールとしては不適なように思われますが、Au privaveとか、しっかり使われてるんですよねえ。ブルースでは、トニックにおいてI7があてがわれますがこの時の理論的な噛み合いの悪さは、新入生を相手にする際にいつも戸惑いのもとになってしまいます。
 

 実は、一つ一つの音については、つきつめて説明する限り、使ってはいけない音というのは存在しません。ちゃんと探せば、その音を使う根拠となる理論をひっぱりだしてくることはできるもんです。

 ですから、一つ一つの単音のレベルで考える限りは、納得のゆく回答はないと思われます。ですが、もう少し大きな流れにおいての音の正しさ(正確にいうとふさわしさ、か)正しくなさはある程度存在するように思います。


 話し言葉とのアナロジー

 「理論」の項でも試みたように、音楽を会話、話し言葉などのアナロジーで考えてみます。言葉はひとつひとつの文字の連なりから構成され、音楽はひとつひとつの音(音符)の連なりから構成されますね。そういえば、そうやって出来た分節/音節は、共に「フレーズ」という言葉で表されます。

 ここで注意してもらいたいのは、言葉の場合、文法によって規定されるのはひとつひとつの文字ではなく、あくまでそれが連なって完成したフレーズ、分節・文章に対してだということです。

 音楽も同じです。ひとつひとつの音に文法(この場合音楽理論)を当てはめることは適当ではありません。

 

 例えば、「おはようございます、□…」という文があったとしますわな。

 この四角の部分→□には色々な言葉を入れることができますよね。「ああ、又遅刻しちゃったよ…」であったり「今日もよろしくお願いします」だったり。

 この、四角の枠の部分の最初の一字に、使ってよい言葉、いけない言葉というものはありません。もし、使っちゃったら、その言葉を含む文を作ってやればよい。

 たとえば、どうしても「さ」という言葉を入れて会話を成立させようとした場合、「おはようございます、『さ』あ今日もがんばるぞ〜」とか「おはようございます。『さ』て、昨日の件だけどどうなってる?」とか、まぁ、どうにでもなりますよね。逆にある文字を使わないというのも、意識すれば可能です。(むかし幽遊白書の中にそのような勝負があったように思う。蔵馬が戦ってた。)

 こういう観点で考えれば、『どんな文字でも使うことができる』『使ってはいけない文字はない』というのは真実ですよね。しかし、

「おはようございま□」であれば、これはかなり意味が変わってきます。

 この場合、ここに入れて意味が通る文字はかなり制限されますね。

 例えば、先ほどと同じで「さ」を入れてみる。

 「おはようございまさ」

  (……?)
  (「まさ?」)
  (「まさ?何?」)
  (トミーズの雅?なんで?」)
  (「おはようございまさぁ…って、丁稚?」)
 などと、要らぬ憶測をよんでしまいますが、これは明らかに文法的に意味をなしませんし、その次に言葉を繋いで行くのもむずかしい。

 この例で解るように、同じ言葉を選ぶにしても、全く自由に選択することが許される部分と、文法的にストリクトに規定される部分(他の言葉の影響を受ける部分)があります。

 音符でもやはり同じようなことがいえるわけです。一つ一つの音符だけを見てゆくと、どこに何の音を置いても文章を成立することができるが、結局は他の音符との並びにて整合性が決まっていくわけです。

 なんとなく、いいたいことがわかりましたでしょうか?


「正しさ」は一つではない

 では、文脈における正しさ・正しくなさ、それを判断する基準は、具体的にはどういうものでしょうか?

 困ったことに、実はジャズ全般を見渡して通用するそういった決まりは、ないんです。

 「ジャズ」と一括りにしていますが、その理論的なアプローチは時代と共に相当変遷しております(逆に、過去に作られた理論を覆す方向で新しい音楽理論が作られているとも言ってもよい)。表現として、時代が下るとともにどんどんアバンギャルドな方向に向かっているのがジャズです。

 ですから、例えば1950年代のビバップ、ハードバップの文脈ではふさわしくない音使いというのがあったとしても、それは後代の理論的なアプローチ(モードとか)では別にふさわしくなくはない可能性があるということです。そもそもマイルスがモード・イディオムに移行した理由こそが、バップ・イディオムによるアドリブに限界を感じていたからに他ならないわけですし。

 我々の日常会話も、TPOによって言葉遣いを変えますね。葬式の席、フォーマルな席、日常会話、これも電車の中と家の中では言っていいことと悪いことが異なりますが、ジャズの場合はその比ではないと過言ではないかもしれません。

 理論的な枠組みは、大体時代が下る毎に自由になる傾向があります。これは、後代の理論には、必ずその前の時代の理論が内包されているからです。


 「間違い」と感じる理由

 では、理論的に、無限の自由度が許されるのであれば、なぜソロによっては「間違っている!」と感じられるようなものが生じるのでしょうか?それは我々の耳の錯覚なんでしょうか?

 

 そうではありません。「オッカムの剃刀」という法則があります。

[オッカム-の-剃刀]Occam's razor; Ockham's razor
Occam's razor is a principle attributed to the 14th-century English logician and Franciscan friar William of Ockham. The principle states that the explanation of any phenomenon should make as few assumptions as possible, eliminating, or "shaving off," those that make no difference in the observable predictions of the explanatory hypothesis or theory. The principle is :
entities should not be multiplied beyond necessity.
(ある事柄を説明するのに、必要以上に複雑な仮説を立ててはならない)
(Wikipediaより)

人は、可能であれば、出来るだけシンプルな理論を好むようにできているのです。

 現代のジャズが無限の自由度を持っているといえども、その無限の自由度を許す理論の核となるのは、それほど自由ではない古典的な理論です。例えば、スタンダードナンバーのメロディーなどは、ダイアトニックな音階で作られていますよね。我々の中心部にはやはり強固にdiatonicな音階が刷り込まれているわけです。

 ゆえに、ダイアトニックスケール(要するに、キーの音)だけを使ったソロを吹いていれば、その解釈は、ダイアトニックコードの上で処理されるでしょう。現在のジャズは、確かに理論的には自由でありますが、その自由さを堪能するために原曲の調(トーナル)からも自由である必要があります。即ちトーン・アウトが前提となっているわけで、もしトーン・アウトしなければ、やはりダイアトニックの枠組みの中で判断されます。この時、例えばトニックの解決音に4度の音を吹いちまったりすると、かなり違和感があると思われます。また、コードなりに吹いているなと思われるソロの中で、ちょっとテンションとしても処理できない音がぱっと出てしまうと「嘘」を吹いているように聞こえてしまいます。

 ですから、一見矛盾しているようですが、いわゆるAvailable note scaleといわれる、そのキーの音よりも、キーの音以外の音(non-diatonic note)の方が、案外間違って聞こえない。non-diatonicの音を交えたフレーズは、様々な理論的アプローチが考えられるがゆえに、一瞬、判断停止に陥ります。むしろダイアトニックの音を使って、コードの解決感が示されない場合に、人は「間違い」であると判断を下しやすいようです。ダイアトニックの音だけであれば、それを規定する理論は一つしかないからです。(ではキーの音以外の出鱈目な音ばかり吹けばいいかというと、それも当然お薦めできません。私の先輩にそういう人がいたんですけれども)


共時性の排除

 あと、大事なことですが、アドリブの一つの部分で存在するのが許されるのは一つのスケールです。同時に、複数のスケールが混在することは許されません。

 スケールとスケールの間のチェンジが出来るだけわかりやすい方が、「間違い」という感覚を抱きにくいと思います。混ざるとよくありません。

 例えばコース料理を考えますと、前菜があって、オントレ、メイン、デザートがある。これらは一つずつ順番に出ることでそれらの存在感をお互いに増すことが出来るわけです。もし、メインの中にデザートが突っ込まれて一緒に出てきたらどうでしょう?味の足し算、とはいわないですよね。台無しです。

 絵画でもそうで、キャンバスの中には様々な色が共存しています。しかし、その色の配置にはやはり一貫した論理があって、それを全部混ぜ合わせてしまうと、どす黒く汚い色彩になってしまう。

 例えばゴッホの絵なども、星空を表現するのに、本来は存在しない色を混ぜて深みを出していますが、決してその一つ一つの色をパレットで混ぜているわけではないということです。注意深く配置した要素は、我々の脳の中で初めて混ぜられる。

 ま、これは典型的な印象派の手法ではありますが、ジャクソン・ポロックのような抽象美術でも、一見混沌としたように見えますが、彼なりの論理的一貫性で色彩は注意深く配置されています。

 音楽でも同じで、カラフルなサウンドを作ろうと思っても、すべてのエッセンスを一度につめこんでは期待した効果を得ることは出来ません。

 もちろん、一つのフレーズの中では必ず一つの理論に従ってフレーズを作るべし、なんていいません。しかし、例えばIIm7-V7-Iのフレーズがあったとして、前半では、IIm7のコードトーンを使った(スケールで言えばドリアン)フレーズ、V7の一二拍はミクソリディアンで、三四拍目はオルタードスケールのフレーズを吹いたとしましょう。この時、オルタードに変わったら、オルタードスケールの枠内でしか音を使ってはいけません。このオルタードスケールにミクソリディアンの構成音を混ぜると、すべての音が使えることになりますが、それでは何がなんだかわからなくなってしまいます。

 でも、アドリブの上ではオルタードに変化するポイントは別に何拍目でもいいわけですから、ミクソリディアンのフレーズを吹いているある時点をもって、「次に吹ける音」を考えると、1:そのままミクソリディアンでフレーズを作ってもいいし、2:オルタードの音を使ってもよい。即ち、すべての音を使うことができます。これは最初に挙げた「おはようございます、□…」の例と同じですね。

 すべてのものを選ぶことができる。
 しかし、同時に選べるのは一つ。
 そういうことです。

 ちなみに、ジャズでは、同じ曲の同じ部分でも、メロディのダイアトニックを生かしたアプローチ、コードトーンによるアプローチ、ノンダイアトニックなアプローチがフレキシブルに共存しうるわけですが、今言っているアドリブの中でのスケールの選択に関する問題とは別問題であることは明記しておきます。

 

 それに、そういったスケールチェンジをする場合、十分にそのスケール感を出さないうちに次のスケールに移行してしまうと、そのスケール自体が見えてこないことになります。

 例えばブレッカーとかコルトレーンは、早いフレーズを並べたてるスタイルでソロを組み立てますが、フレーズを解析しますと、大体四つから八つまでの一固まりで、一つのコードというかトーンを代替するように吹いています。アバンギャルドなトーン・チェンジをそのメカニカルなフレーズの中でわかりやすく示してくれますわけですね。

 オルタードの音を使う時は、オルタードらしさをしっかりと効かせるべきですし、コンディミを使うならコンディミを、とわかりやすく示してやろうとするのも大事です。(実際、そうやってわかりやすく示そうと思っても上手く行かないことの方が多かったりするわけで、わかりやすくやろうと心掛けるに越したことはありません)

 つまり、シュールなボケを言うなら、ちゃんとその単語が聞こえるように滑舌よく言わんと、何を言っているかわからん、ということですな。

 例外もあります。ジャズがアートである限り、常に例外だらけです。

 例えばtoots thielmansとかmilesなどは、アバンギャルドな音使いをしても、隙間なく音を並べるというドグマからは解放されているようです。本来こっちの方がスマートなはずなんですけれども、説得力を持たせるには技量(楽器の技量ではなく、「説得力」とでもいうべきメロディーメイクセンスの技量)がいりますので、こっちの方が難しいです。


卑近な具体例

 私自身は60年代以降のジャズ理論は必ずしも咀嚼し得ておりませんので、そこに詳しく言及することは出来ません。とりあえず、バップ・イディオムによって演奏する場合の「嘘っぽく聞こえる」パターンを具体的に挙げますと、

・トニックの解決音に、4度の音を持ってくる。
・ドミナント7thで、major7の音を使う。
・SD→SDMといい感じに下っているフレーズの途中に、major系のスケールが入ってしまう。
・例えば、Green Dolphin Streetの1-4小節目のようにMajor→minorと明らかにコードが変化しているところで、majorの音を使う(逆にmajorのところでminorを使うのは認容されるシチュエーションが多い)
・Dominant部で、一度オルタードスケールに移行したのに、解決しないのにダイアトニックノートが出てくる。もしくは解決するはずのところでもオルタードのまま。

 などでしょうか。但しこれも、コードの機能を大きくみてリハーモナイズした場合、インサイドである場合もあります。上記の項目に抵触していながら、それほど「間違っている」ときこえない場合、うまくそういった問題を回避していると思います。
 ケースバイケースであり、なかなか判断が難しいところではあると思います。

(Jun,2006 初稿)