Meanings of Improvisation

問: ジャズの人は「アドリブ」に対してすごく価値をおいていますけど、正直言ってよくわかりません。
 最高級に完成されたソロがもしあれば、それはもういじりようがないはずです。毎回アドリブで、違ったソロをするというのは、逆に不完全性さの証明ではないのでしょうか。本当に優れたものには普遍性があると思うんです。
 前もってソロを作って演奏することと、その場で即興で行うこととの間には、果たして絶対的な差はあるのでしょうか?

 不幸なことにクラシックファンとジャズファンはそれぞれの音楽を自分の価値観で評価する傾向にあります。クラシックの評価軸で判断する限り、ジャズの即興演奏といわれるものは、そう評価せざるを得ません。

 話し言葉とのアナロジー

 いつものことですが、音楽を言葉のようなものにたとえて話を進めているわけです。実際音楽を聴く際に活性化している脳の場所は、言語野にかなり重複しているといわれます。

 なにかを発信したいという意志の元に我々は音を発するわけですが、これは言葉も音楽も本質的には変わりありません。違うのは、言葉の場合伝えるべき要素はわりとはっきりとしており、概ね伝え手の意図どおりに聞き手に伝わるのに対して、音楽の場合は伝え手ですら、明瞭な意図をはっきり認識できず(言語化できない)、聞き手が正確に意図を受け取ることが目的の第一義ではないということでしょうか。

 音楽の場合、伝えることが出来るのは漠然とした情緒の残像のようなものに過ぎません。

 話を戻しますが、17世紀頃発展したクラシックという西洋音楽の形態の場合、細かなニュアンスに関しては解釈の余地があるものの、基本的には同じ音符を演奏することになります。

 絶対的に完成された音楽は変更の余地がない、という観点からこの様な形態に至ったと思われるのですが、これを「言葉」で置き換えてみると、クラシックの曲は、例えばシェークスピアの様な古典的な戯曲のようなものでしょうか。名演奏者は、シェークスピアを朗々と演じることのできる俳優の様な存在ということになります。

 もちろん、発せられる台詞が完全に同じであっても、抑揚やジェスチャー、演技などの細かい部分の解釈は個人に委ねられています。それが俳優の優劣であったり、個性であったりするわけです。

 さて、この「シェークスピアの劇中で優れた台詞回し」をする役者である彼が、ひとたび舞台を降りたとして、彼がプライベートで話す言葉はどうでしょうか。例えば女の子を口説いているときやパーティーで話している時。彼は、舞台での彼と同じように当意即妙かつウィットに富んだ言葉を言えるでしょうか。

 おそらく優れた戯曲に多く接した人間は、そういった優れた文学のエッセンスに親しんでいるであろうから、魅力ある会話ができる可能性は高いとは思いますが、それは彼の役者としての才能とはまた別の話であります。また、逆にシェークスピアの台詞は上手くしゃべれなくても、そういう魅力のある会話が出来る人はいるでしょう。

 ある言葉に対し、アドリブで言葉を返す。その言葉に対しさらに言葉を連ね、会話を盛り上げる。我々は、つまらない会話にしろ高級な会話にしろ、このような一連の言葉の選択を続けています。このような場面場面での会話の才能は、優れた戯曲を朗読する才能と、全くイコールではありません。

 こういう風に見ると、ジャズの持つインプロヴィゼーションの価値が理解しやすいと思います。つまり、アドリブの本質は会話であるということです。

 クラシックをシェークスピアの演劇とするならば、ジャズにおける即興性は『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで』のようなフリートークと考えればよいでしょう。

 あの番組はダウン師匠とタウン師匠の二人が、アドリブで会話だらだらしているだけですが、それでも言葉を操る技巧が優れているために我々が(たとえばパーティーで)交わす会話を質的に凌駕しているわけです。

 ちなみに、フォーバースは「大喜利」です。嘘です。


アドリブの能動性

 問題は、言葉に関しては、我々は能動的に言葉を発することに慣れていますが、音楽ではそうではないということです。

 人が作った言葉を、そのまま朗読する機会はそんなに多くはありません。アナウンサーの原稿や、俳優、もしくは政治家の答弁くらいのものです。しかし音楽に関してはむしろ能動的な発語の方が少ない。音楽では、多くの場合一握りの作曲者が作った楽曲を演奏するという形態が主流を占めています。つまり作曲は一握りの作曲者にとって寡占されている。

 ですが、演奏には演奏の楽しみはあれど、作曲には作曲の楽しみがあるはずなんです。それこそ、俳優が演技で優れた戯曲の台詞を演じることと、自分の言葉で喋るのでは、別の種類の快楽が存在するように。

 かといって、作曲、もしくは作詞をするのは、それなりに長年の修練と様式の洗練が求められます。それゆえに作曲という快楽も寡占されてしまっている。

 即興演奏には、作曲という行為が持つイデアとパトスが多分に含まれています。もちろん、机上で作曲するのに比べると、チャンスは一度きりですから、完成度では比べものになりません。シェークスピアの戯曲の台詞と、おそらくシェークスピアが日常で会話していた会話の内容に大きな隔たりがあるのと同様に。だが、その本質的な快楽としては作曲と同種のものが含まれていると思います。

 アドリブ演奏の本質は、あくまで、楽曲の一部ではあるが、能動的な行為であるというところにあると思います。つまりは小さいレベルでの作曲であると、考えてよいのではないでしょうか。


 「即興」の意味

 さて、即興演奏の意味論を考えてきたわけですが、今までは、即興演奏の「創作性」、つまりアドリブを行う意義について書いてきました。では「即時性」に関してはどうでしょうか?「その場」でソロを作るという行為に意味はあるのでしょうか?

 事前にソロを作って、それを演奏する、という形態でも、そのソロを自分で作れば、それは「アドリブ」と言って構わないはずです。では、その場でソロを仕立てるという形態と、そうやって事前に組み立てたソロではどちらが優れているのでしょうか?その場で組み立てるということはより一層不完全さの余地を残していると言えなくもありません。

 しかし、「その場」でソロを作る事には、非常に大きな意味があります。

 即興演奏が毎回異なったものになる大きな原因は聴衆との会話にあるのではありません。もちろん聴衆からインスパイヤされるものもゼロではありませんが、アドリブは、ステージに立っている他のプレーヤーの音に非常に大きな影響を受けます。

 ソロをとっている場合も、それに対して他の楽器はバッキングを通じてそのソロに対して相互作用を働きかけます。当然その成り行きは毎回同じものではありません。

 要するに、即興演奏が小さなレベルでの作曲と言いましたが、この点に関しては、他のプレーヤーとの交歓を許している分、ジャズの即興演奏はこの点では作曲よりも勝っていると言えます。

 もし、自分でソロを作って、それをステージで弾くだけなら、こうしたせっかくの他のプレーヤーとの交歓の機会を自分で閉ざしてしまうことになります。

 もちろん自由度が増えれば失敗の確率も増えます。マニュアル車は、優れた乗り手ならそのエンジンパフォーマンスを引き出すことが出来ますが、へたくそが乗るならオートマの方が遙かにましでしょう。それと似ています。

 しかし、へたくそなドライバーでも、事故らない程度に上手くなれば、オートマよりもマニュアル車の方がドライブは楽しいものです。下手くそアマチュアジャズ演奏家がはびこる理由の一つがこれです。私も含めて。上手くなればなおのこと悦びが得られることでしょう。

 念のため補足しておきますが、プロの人でも全くソロを作っていないというわけではありません。例えばJazzmessengersの持ち曲、Moanin'などでは、"入り"のトランペットのソロとかはお約束のように常にキュっとしたハイノートから入りますし、ソロの流れも大体は決まってはいます。多くのプロフェッショナルな演奏家の同じ曲の別テイクを聴くと、その人なりの「流れ」というものは大体決まっていることがうかがえます。これはプロにとっても「完全な自由」というのは多大なストレスを強いるものなのではないかということを窺わせるわけですが、ただ、まるっきり同じではない。


 ここまでいろいろ書いてきましたが、もしあなたがこうした即興演奏という形態をとらない音楽(端的に言うとクラシック)に長年親しんでいるのであれば、ジャズの即興演奏に馴染めないのは無理からぬことと思います。しかしちょっと考え方を変えてみて下さい。あなたが即興演奏に価値を見いだしにくいのは、あなたが作曲というものをしたことがなく、(したことがある人の方が少ないとは思いますが)、クラシックのそうした作曲の楽しみをまだ経験していないからではないかと。

 全く別の事のスポーツ、ルールだと思って、今までの既成概念を取り去ってやるといいのではないかと思います。

 多くの野球選手が、ゴルフも上手に出来ます。慣れてくると野球のトレーニングを通じて習得した様々な身体感覚はゴルフにも共通のものであるからです。クラシックとジャズの関係も似たようなものかもしれません。クラシックを体得するのに培ったいろいろな素養は必ずジャズでも役立ちます。しかし初めっからクラシックのルールでジャズをやろうとしても、それはなかなか無理が生じるのではないでしょうか。

(Jul,2006 初稿)