Antonio Carlos Jobim考

 なんであんなにシンプルで美しいメロディーを作れるんだろうと思う。

 たとえば、テクノロジーの進歩などは時代が下るほど精密に、かつ精巧になってゆく。文明とは、歴史に残っている限り、右肩上がりなのである。

 音楽も同様であると、僕らは考えがちである。確かに楽器の精度、ピッチコントロールなど物理的な要素、それも平均値は時代と共に明らかに向上している。楽曲の緻密度などにもそういう傾向はある。

 しかしそれならば、なぜ未だにモーツアルトやバッハが巨匠としてもてはやされているのだろうか?

 別の分野、たとえば絵画の世界などを考えてみよう。

 現代の絵画に至るまでには、質的なブレークスルーがいくつかある。例えば、ルネッサンス期の遠近法技法を初めとする絵画革命、それから19世紀の印象派。そしてそれ以降。

 それらの質的なブレークスルーを経る前の、例えばフレスコ画とか、いわゆる中性の宗教絵画などをみても、それなりに緻密であるし、かなり用意周到な作者の含意も見て取れる。もっといえば、例えばアルタミラの壁画だって、画材の素朴さはともかく、描線に稚拙さは感じられない。つまり後代になればなるほど緻密さを増すというわけでもない。

 もちろん、明らかに時代の制約というものはある。現代の我々はそうした絵画理論が言語化され共有されている時代に生きている。遠近法、色の分解法の確立した現代、そうした知識は自明のものである。 こうした技術が共有されることで、我々は短期間にこうした絵画技法を身につけることが出来る。だが、絵描きとしての「イデア」はそうした技術と切り離されたところに厳然として存在するのだ。

 音楽にしてもそうである。平均律、コード、ドミナント・モーションなど現在の音楽のほとんどはこうした確立された共通認識の上に組み立てられている。こうした理論は、手探りで作曲を行い、膨大な時間を費やす労を減らしてくれる。

 しかし、そうした理論を踏まえた上で、芸術家はオリジナリティを出さなければならないのである。定式化された理論の枠組みの中から、作られる曲なんかは、つまらないものである。本当に優れたメロディーは、そうした理論に背を向けて、自分の心の中のイドを掘らなければならない。

 理論が整備されている、というのは、逆に言うとそういった理論外に逃げ込む道を狭めることにもなるのである。

 ビ・バップは、その時代の中ではもっとも精緻(メカニカル)な理論を提供してくれたが、じきに煮詰まった。セザンヌ以降の絵画理論も、キュービズム以降、煮詰まった。

 精緻な理論は、必ずしも創造的に働くとは限らない。

 そうした「煮詰まり」から脱却すべく、モダニズムの世の中である20世紀には、あえて理論から逸脱する非ユークリッド的アプローチが好んで使われたが、そうした「我を張った」芸術というのは、どうにも折角先人達が築き上げたエレガントさに欠け、グロテスクさが鼻につく。例えばジャクソン・ポロック、セシル・テイラー。マイルス……はそうでもないけど、例えばマイルスが晩年に着てたへんてこな服はそういう感じがする。

 それに比べて、ジョビンはどうだ。

 譜面だけみても、何時代の人かさっぱりわからない、竹を割ったような、しかし玄妙なメロディー。今まで培われた理論に敢えて挑むわけではないのに、うまい。

 絵画でいえば、絶妙に遠近法を無視したフリーハンドといった感じなのである。そういう感じの「うまさ」なのだ。最小限の描線で過不足無し。

 コルトレーンが死ぬちょっと前にジョビンの音楽を聴いて、こういうのしたかったんだよねーとか呟いたとか呟かなかったとかいう話がありますが、アバンギャルドな細密画のような音楽を目指そうとしていた彼らしい感想だと思う。

 ジョビンはボサノバの人っていうイメージが強いけど、この人にとってはボサがどうのこうのって別になかったんじゃないのかなぁ。そういうのを越えた普遍的なところに楽曲は位置している様な気がする。

 こうして書くとジョビンは天然ちゃんのような風に思われるかもしれないが、彼は建築家を目指した、理数系の男で、音楽理論的なものもかなり高度に理解していたことが知られている。

 だからこそすごいのだ。遠近法も、印象派も踏まえた上で、敢えてアルタミラの壁画のように、一筆書きのようなシンプルな描線で書いてみせる男。

 ただものではない。



(2005,初稿)