昔の本はなぜ難解で抽象的か


—本について

 当直先で『死に至る病』を読む。
 キルケゴール。
 速やかに眠りに落ちる。
 さすがだ。

 ところで、19世紀、またはそれ以前の本って、なんであんなに読みにくいのだろう。

 同じことを説明するにしても、現在我々が読んでいる書物のほとんどは具体的でストレートなのだが、昔の本は迂遠で抽象的なのである。

 それでも高校生の時は哲学とか結構読んでいたのだけれど、最近抽象的思考の体力が落ちているのだろうか、その類の本を読んでもさっぱり理解した気にならない。

 現代の本と過去のこの手の本で大きく異なるのは「序」の部分である。一人の文筆家が書く本がそれほど多くはなかった当時、序では自分の人生を振り返り、その本を書かれた動機のようなものが述べられる。さて、では本文に進むと、まず用語の定義とか、「そもそも……」とは…のようなそもそも論が始まって、なかなか本題に入らない。

 今の本には、そうした拡張高い序文はみられない。いきなり本文の核心から始まる。しかも非常に読者の興味を引きやすいような具象な話。

 しかし、今の本はわかりやすいが、その分皮相的な気がする。

 まあ確かに、昔は本書くのにマーケティングなんか求められなかったわけだし、読者に阿(おもね)る必要なんてなかった。今の執筆者は、読者に対してフレンドリーかつへりくだらなければいけない。靴すら舐めかねないほどだ。

 しかし昔の作家が書く本がああいう晦渋なものになる背景は、単純に書物に対するコストの問題や、ストレージスペースの問題と似ているのかもしれない。

 例えば、ハードディスクが100GBしかない場合と、1GBしかない場合では、保存の仕方は異なってしかるべきだろう。

 現在のように、十分すぎる程スペースがある場合は、すべてを保存しておき、必要に応じて取り出しさえすればすむ。この時問題になるのは、必要に応じて迅速に情報を取り出すためのタグの付け方とか、ファイルの名称の付け方とか、そういう保存した情報にアクセスする方法論だ。現在の我々は、一生見返すことがないかもしれないファイルすら余裕で保存しておくことができる。そして、強力な検索エンジンによってタグを拾えば、こうした文書を再び読むことが出来る。たとえ文書をうろ覚えであっても。

 ところが、こういう状態はここ四、五年で初めて可能になった技術で、これまでの人類の歴史ではこうした保存方法は許されていなかった。保存しておける情報は常にわずかで、「とりあえず取っておいて、後で考える」という方法は許されない。常にその場で情報の取捨選択を求められる。

 おそらく、PCの無い時代に育った世代が、現在のIT Solutionに馴染めないのは、こういう情報の取り扱いの根本的変化に適応できていないからではないかと思う。

 卑近な例であると、例えばコンピュータのことをよく知らない人は、ワード文書を今までの紙の書類やノートと同じ様な感覚で使ってしまう。

 例えば、新しく文書を更新したりする時に、そのまま重ね書きしてしまう。以前のバックアップを取っておけばいいのに、そういう風には考えが回らない。勿論、バックアップなどとらなくても、基本的には業務に支障はない。業務に支障を来さない限りは。ところが文書というのは、修正したものを再び修正して、元に戻さなければいけないことがしばしばある。

 いろいろ文章を推敲したりする上でも、例えば取捨選択した文章の断片をどんどん消してしまうのも、過去の悪癖である。取っておけばいいのにと思うものも、消してしまう。
 後で推敲してやっぱりさっきのがもう一回欲しいなという時に無駄な労力を費やしてもう一度書いたりしなければならなかったりする。

 しかし、現在より以前の時代には、こうした方法論こそが正解だったのだ。情報は無限に保存出来るわけではないし、例え保存出来ていても、その情報を再検索するには情報量に比例して多大な時間を費やす。こういった場合、いかに情報を圧縮するかということが解決への道となる。その頃重要なのは「タグ」ではなく「インデクス」だったのだ。

 タグにて管理している場合、情報を取り出すのに必要な時間は総情報量に比例する。コンピュータのない時代、こうしたことはすべて人力で行うしかなかったし、それは全く実現可能性のないことだった。インデクスは、そうした検索を行う必要なく、情報を取り出すことができる。

 おそらく、昔の本が読みにくいのは、現代のような「タグ」志向ではなく、「インデクス」志向で本が作られていたからではないかと思う。

 タグ志向とインデクス志向。

 検索に引っかかりやすいよいタグの付け方は、できるだけ具象であること、特異的なものであることだ。よく使われるような普遍的な言葉でタグをつけても、検索したときに膨大なノイズを含むので役に立たない。

 ところが、インデクスは別だ。インデクスというのは、大項目から中項目、小項目と細分化されてゆく、情報のツリー構造がある。

 この場合、特定の事柄というのは小項目に分類され、インデクス型の検索では引っかかりにくい。むしろツリーの幹に近いような、普遍的かつ包括的な概念について書いた方が、大勢の目に触れることが多くなる。

 自分の言いたいことを書物にする場合に、現代では、興味を持った具象を前に書き進めていけば済む。自分の書いたものは、あくまでその出発点になるテーマに沿って書いたものであり、それ以上の何物でもない。論が深くなれば話は普遍的な方向へ向かうこともあるが、基本的に論の出発点は具象である。ゆえに、わかりやすい。

 こうした書物はタグ的検索において優位にある。しかし、インデクス的検索では末位にあるのだ。

 ところが、19世紀またはそれ以前の本というのはそのちょうど逆だ。必ず普遍から出発している。序論などの書き出しをみればそれがよくわかる。今まで自分がどのように人生を歩んで、このような事に疑問を持ったか、そしてそれに対してどう考えたか。そして今の知の領域の世界地図の中でこの本がどの部分に位置しているかが、延々書き連ねられたりしている。昔の書物の序論などは、現代の編集者には、冗長とばっさりと切り落とされてしまうだろう。

 昔の書物には多かれ少なかれその人個人の総括のような要素を含んでいる。18世紀までに書かれた全ての本には、「—または私が私の人生で考えてきたこと」というサブタイトルを付けてもいいと思う。

『君主論—または私が私の人生で考えてきたこと』
『純粋理性批判—または私が私の人生で考えてきたこと』
『神曲—または私が私の人生で考えてきたこと』等・等。

 現代人にとってなぜ昔の書物が今ひとつとらえどころがなく、なおかつ何のために書かれたのかをわかりにくいのかは、そのためではないかと思うのだ。

 

 ところで、普遍的であろうとして書かれた本は、そうした晦渋さを持つ反面、情報の圧縮という点では非常に優れている。当然のことで、彼らは限られたスペースの中に、一生を掛けて考え抜いたことを詰め込んでいるのだ。イメージを喚起させるような具体的な話などは、字数の制限からカットされる。逆にそれが、普遍性を高め、何度でも何度も読むことに耐えうるのだろう。

 哲学書などは、今直面している人生の悩みに、わかりやすい形で答えが書かれていることは少ないが、そうした思考のプロセスが(いささか晦渋な形で)書かれているが故に、別の疑問が出ても、それにある程度答える力を持っている。

 僕は、旅行に行くときにはできるだけそうした本を買っていくようにしている。単位重量あたりの読み応えが最も大きいのがこういう本だからだ。

 人一人が一生の間に伝えられることなど、それほど多くはない。例えば、中谷彰宏や和田秀樹は、50冊、100冊と本を書いているが、やはりそういうのは薄いのである。自分というものを最大限に薄めて本の冊数を増やしている。もちろん、現代の出版業界にあっては、それは最適化された行動であるというのは理解できる。

 だが、昔の人の書物、一生に書く本がせいぜい10作もないような時代の本には、原酒のような濃厚さがあるのだ。

(Aug,2005 初稿 Dec,2006改稿)