Planetarium is planetar-ism.


 ある四月の晴れた日、後輩達が明石へ遊びに行くというので同行させてもらった。

 明石天文科学館のプラネタリウムへ行ったのである。プラネタリウム、とは、随分久しぶりだ…

 小さい頃、広島に住んでいた。
 広島市のまんなか辺に平和公園があり、原爆ドームや市民球場が並んでいる界隈がある。その辺りに青年科学館という建物があり、そこのプラネタリウムへは小学生の時何度か行った。
 プラネタリウムに行くことは好きだった。しかし、子供にとってプラネタリウムよりも刺激的なことは沢山あるし、その後福山へ引っ越してからは足が遠のき、それからは一度も訪れたことがない。

 だから、実に13,4年ぶりになる。

 久しぶりに入ったプラネタリウムは思っていたよりもずっと小さく感じられた。小さい頃の圧倒的なイメージのままなのだから無理もない。

 プラネタリウムはいつも昼間から始まる。
「いま、空を見上げたらこう見えます」的な状態から始まることが多い。
…そして、次はスクリーンに映し出された太陽が 沈み、夕焼けで西の空が赤く染まる。
 やがて暗くなるにつれ、とりわけ明るい星々が輝き始め、夜がますます濃くなると、暗 い星も視界に加わり始める。いまや、夜空は十分なほど暗い。
 …しかし、予想を超えて、闇はますます深くなる。もはや、星の数は多すぎて、光が滲んだようにしかみえない。

 これを一息で見せてくれるわけだ。

 勿論、星自体は空気の綺麗な所で見るのが格別に違いない。プラネタリウムのプラネタリウムたる所以は、黄昏から夜半にかけての導入部分、通常ではあり得ない「早回し」の時間、に違いない。

 ただの早回しに過ぎないのに、なぜ、それだけで息をのむような感動になるのだろうか。


 …初めて車を運転したときは別段感慨はなかったが、初めて友達に原付を借りて乗った時のことを思い出した。

 車に乗るときは、まず座席に腰掛け、イグニッションをひねり、シートベルトを締める、という一連の儀式が必要である。そこで、歩いているときからの連続性は途絶えてしまう。

 それに対して原付は、またがって何気なくアクセルを開けると驚くほど呆気なく走り出す。車と違って何かを「操作」しているという感覚もない。直感的に操作できる。

 おまけに、初めて乗ったその時はノーヘルメットだった。(公道では違反だが私道なのでよかった)。

 つまり、「乗り物に乗っている感」が希薄なわけだ。
 自分自身、もし自分にチータ並の脚力があれば得られるであろう加速感を錯覚する。

 歩みを早め、走り出し、さらにスピードを上げたときに見えてくるであろう視界。
 夢の中でとんでもない速さで走っているような風の流れ。
 普段の自分を早回しにしているような感覚。
 時間の壁を突き抜けていることが、快感の源か、と思った。
 プラネタリウムが感動を与えるのも、同じような理由だろう。
 速度の壁よりも難しい時間の壁。それを超えさせてくれるからに違いない。