優れたゲームの条件とは?


—塊魂を通して考えるゲームの身体論


 昔は大層なゲーム好きの私であったが、最近は時間がないのでじっくり腰を据えてやるようなゲームは出来ない。医者になってから、きちんとやったゲームというのは少ない(※1)。

 が、久しぶりにゲームにはまっている。
『塊魂』というゲームである。

 どういうゲームかというと、非常に単純なルールなんである。

 大玉転がしのように玉を転がす。落ちているものに触れると、巻き込んで玉は少し大きくなる。雪だるまをつくるみたいに。玉の大きさより大きいものは巻き込めない。だんだん周りのものがくっついて大きくなると、以前は巻き込めないものが巻き込めるようになる。

 最初は机の上で画鋲とか消しゴムなどの小さな文房具を巻き込む程度の話だったのが、玉が大きくなるにつれて、机そのものとか、人とか、車とか、家なども巻き込めるようになり、最終的には玉は小惑星くらいの大きさにまで成長し、客船やビルなどの大物も巻き込むような大玉に成長するのだ。

 このゲーム、非常に体感的である。体感的すぎて、酔ってしまいそうになるほどだ。既存のジャンル分けが出来かねる不思議なゲームシステムではあるが、間違いなく面白い。


面白いゲームの条件とは?


 というわけでこのゲームはいいゲームであることは確かだと思う。ところで、いいゲームって(※2)、いったいどういうことだろうか。

 僕が考える面白いゲームの要件がある。

 それは、「日常生活から変容した身体感覚」というものが存在するかどうか、である。

変容した身体感覚

 「変容した身体感覚」とは一体何か?

 我々は通常、自分の肉体を「自己」として認識し、外界を「非自己」として認識する。自分の肉体のみを「自己」と規定し、自己と非自己の境界線は皮膚であるわけだが、これは状況によって我々の想像以上に変化する。

 たとえば我々は靴をはいています。触覚の生理学からいえば、我々は足の裏で靴の裏側を感じているはずです。ところが、じっさい歩いているときはそんな風には感じない。道路のでこぼこ、コンクリート舗装の頭にひびく堅さ、落ち葉がつもった山道のふかふか、芝生の快さ、泥の中にふみこんだときのグニャッとした嫌な感じ、それらすべてを靴の裏で感じています。
(市川浩『<身>の構造—身体論を超えて』より)

 わかりやすい例が車の運転だ。

 我々は運転席に着座して足でアクセルやブレーキを踏む。上肢を用いてハンドルに回転運動を与え、車は向きを変える。だが運転の経験があればご存じの通り、こうした操縦の際に、自分が手足を動かしているという意識は運転するにつれて次第に遠のいてゆく。意識は、車を操っている自分の手足を飛び越えて、車そのものの挙動を捉えるようになる。いわば、車と脳がダイレクトにリンクする。

 この時、自己と非自己の境界は生身の肉体にあるのではない。「自己」の領域が拡大し、徐々に車を飲み込んで行く。運転しているときは、皮膚ではなく、車の外殻が自己と非自己の境界となっているのだ。

 これが「変容した身体感覚」である。

 狭い道で車同士の対向を経験してみればわかるが、ドアミラーが当たりそうなほど近い場合に、みみたぶのあたりにひやっとしたものを感じて思わず首をすくめたりしたことはないだろうか。車には我々の脳髄につながる痛覚刺激回路がないのに、脳内で錯覚し、信号が処理されているわけである。

 他にも例を挙げるならば、いわゆる「胃カメラ」の操作などだ。

 我々消化器内科は内視鏡というものを検査に使用するわけだが、内視鏡とは畢竟一本の管であり、我々の生得的な生体器官とは異なる挙動を示すにもかかわらず、習熟すればまるで先端が自分の手のように思い通りに動く。その時、車の運転と同様、手元で操作しているダイアルに自分の意識はなく、カメラから見た第3の目に自己の先端が移動しているのだ。

 同様の例はいくらでもある。動作が無意識的になるにつれて、自己の意識は拡大し、操作しているモノ自体を飲み込んで行く。剣道では竹刀まで自己が延長されているし、これは珍しい例だが、バトントワリングなどでは、体から分離されたバトンですら自己として体感することがあるらしい。


ゲームでは


 このように現実世界では、こうした自己(正確に言えば自己の境界)の変容はしばしば生じている。ゲームにおいても同様に、身体感覚の変容が生じる。逆に言えば、こうした自己境界の変容をスムースに起こすことが出来るゲームがよいゲームであるとさえいえる。なぜならそれは「リアル」だからだ。

 ゲームにおける操作性の善し悪しということがしばしば問題になるが、操作性とはつまるところ、ゲーム世界の中で現実世界と同じような自己意識の変容を起こすことができるかという問題に尽きる。より齟齬の少ない形でこうした意識の変容を達成できるゲームこそが、優れたゲームであると私は考える。

 たとえば、スーパーマリオなどをしているときに奈落に落ちたときに足元がすうっとした感覚を錯覚したことはないだろうか。また、ゲームの初心者の女の子にレースゲームなどやらせると、大抵曲がるときに体を大きく傾けたりするが、これはある種自己意識をゲームの中に仮託している証拠といえよう。

 ま、いわゆるバーチャルリアリティという言葉がこのことを単純に説明してくれるわけだが、しかしゲームにおいてはゲームウォッチや初期のファミコンのような到底バーチャルとはいえない映像でもリアリティを感じやすい。操作系はフィードバックを起こしやすいので、視覚・聴覚オンリーよりも遙かにリアリティを感じやすく、ゲームはこのような自己の変容を呈しやすいメディアなのだろうと思う。

 また逆に、こうした自己意識の変容が、ゲームを終えても残っているような錯覚を抱かせるようなことが往々にして生じる。これはゲーム内での自己意識の変容の程度が強いことを表す間接的な証拠でもある。つまり脳内にてゲーム世界のスキームが形成された証拠なのだ。やはりこういうことが起こりやすいゲームの方が優れたゲーム(※3)であると思われる。

 また例だが、テトリスにはまった諸兄は、はまっていた時期に、何をみてもテトリスにみえた経験はないだろうか。引き出しの中をみても隙間に目がいってしまい、四角のブロックをはめれば列が消えるなとか、考えたり、長い棒が欲しい、とか。そういうありえない妄想を抱いて困ったことはないだろうか。

 同様の例では(これはあまり一般的ではないが)トゥーム・レイダースがあった。これは、いわゆるバーチャル3D空間を上ったりジャンプしたりして進んでいくゲームなのであるが、これはまっていたころ、「あそこのビルまでは大体2ブロックの隙間があるから飛んでジャンプできるかも」、とか、「ダッシュジャンプでなんとかつかまれるかも」とか、妄想がふくらんだものだった。
 
 長々と述べてきたが、この『塊魂』は、まったくこの二つの要件を満たしているのだ。特にはまりかけている今は、何を見てもこのゲーム内と同じように『くっつけられへんかなぁ』とか考えてしまう。車を運転していたら大変だった。電信柱や道路の中央分離帯にぶつかろうとついつい考えてしまうのだ。

(※1) この二年間で本当にはまったゲームはこの『塊魂』と『ICO』だけである。

(※2)昔よく遊んでいたシミュレーションゲームやロールプレイングゲームなどはかなり時間を取るので今の私はほとんど遊ぶことはない。私が手を伸ばすゲームは、(1)1セットが比較的短時間で終わる、(2)ほどよくアクション性のあるものに限られている。激しくアクションのものは、反射神経が追いつかない。僕のゲーム嗜好はこのように偏っている以上、その理論がすべてのゲームを包含しているわけではない。

 ロジェ・カイヨワの『遊びの分類』は「アーゴン=競争・アレア=機会・ミミクリー=模倣・イリンクス=眩暈」と遊びを分類しているが、ここで僕が述べているのはゲームの中でもイリンクスに関するファクターであると考えたい。

 今の僕はコンピュータゲームにおいてはアーゴン・アレアを重視していない。もっとも重要視しているファクターはイリンクスで、独り遊びものの常としてミミクリーをミックスしたものを好む、ということなのだろう。しかし実際遊びの世界においてコンピュータを導入し著しい発達と進歩を見せたのはイリンクスではないかと思うが。

(※3)しかし、この現実社会への変容した意識の逆噴射は、社会にとってはあまり望ましくないのかもしれない。子供の人格形成に影響を与えるというゲーム禍論にて、かならず言われる「現実とゲームとの区別がつかなくなる」というものである。

(Jun 2004 初稿 Jul改稿)