Web日記〜DQ的サイト作り、DQ的人生

—Web日記論6

—人生について

—ゲーム論



ウェブサイト制作はドラクエだ


 こうして自分のウェブサイトを管理していると、好不調の波はあるものの、文章を新しく書けばその分、確実に分量は増えていく。それは結局のところ経験の蓄積であり、何かしら成長のようにみえなくもない。

 薄皮一枚一枚貼り重ねてゆき、気がつくと膨れあがった大きな紙玉になったようなもので、たとえば今このサイトを初めて訪れた人は僕が書いたすべての文章を一日の間に隅々まで見渡すことは困難だ。私が作り上げたこのささやかな架空の王国は、内部が一望できない図体にまで膨張してしまっている。

 だが、その内実、今のところ更新しているのは日記だけである。質的な成長はここ三年ばかりない。

 これではまるで、ドラクエで行き詰まった時に、雑魚を倒して経験値が上がりレベルアップは繰り返すけれど、謎が解けないので、次にいけない。

 それ故にブレイクスルーがない。
 

 そう、行き詰まって初めて気づいたけれど、自分のウェブサイトを作るということは確かにドラクエだった。

 まず、HTMLの書き方を覚える。

  初めてFTPにてアップしたときの喜び。

   最初は訪れるのは自分だけだった。
    掲示板をレンタルして借りてみる。
     フリー素材も取り入れてみる。
      いろんなところにリンクを貼るようになる。
       あちこち常連のサイトが出来る。
        相互リンクもふえる。

         ウェブリンクに登録された。

 などいろいろなイベントがあり、そのたびに世界が広がった。

 ウェブリンクや、アクセス数の多いサイトとの相互リンクがあると、一気に世界の広がりを感じることができた。そう、まるでドラクエで船を手に入れた時のように。

 一歩一歩出来ることがふえて、一歩一歩世界が広がる。

 しかし行き詰まることもある。

 こういう場合、世界をドラクエのように捉えていると、問題解決能力に支障を来すのかもしれない。ドラクエの場合、閉塞した世界を展開するスイッチ(ゲーム用語でいうところのフラグ)を立てさえすればよいが、現実ではそう簡単なものでもないからである。

 ともあれ、HP製作というものは、一流のRPGもかなわないおもしろさがある。経験値で強くなっていくのはテレビの中のキャラクターではなく、自分である。ゲームのように受動一方ではなく、創造性を発揮する余地も多分に残されている。
 仕事ではないから、自分の人生を賭ける冷ややかさも味わわなくてすむ。これが自分の本業だとしたらと考えるとぞっとするが、芸術を生業とする厳しさもないし、他のプレイヤーとの交流や一体感も得られる。

 結構ゲーム人間であった私が、ウェブサイトを始めてから大作RPGなどを全くする気がなくなったのは、ひとえにサイト製作がこうした欲を十分に補償しているからに違いあるまい。

 ウェブ制作は、まさにドラクエである。


ドラクエという人生観


 ホームページ制作はドラクエをするようなものだ、と書いた。
 敢えて「RPG」をするようなものだ、と書かなかったのには理由がある。

 ドラクエイコールRPGでもないし、RPGイコールドラクエでもないからだ。ドラゴンクエストと、そのほかのRPGでは世界に対する視点が全然違うのである。

 ドラクエは、ゲーム史的にみると、アメリカの名作RPG、ウルティマやウィザードリィの要素を取り入れて(もっと口さがない言い方をすると「パクって」)作られたものである。ウルティマやウィザードリィは、日本でも一部のパソコンユーザーの間で流行をしたが、大きなムーブメントを起こすには至らなかった。後にファミコンに移植された時も、(ウィザードリィはそこそこ流行ったが)ウルティマは全く売れることはなかった。ゲームシステムとしてのクオリティが劣っていたわけでは全然ない。

 異なっていたのは、おそらく、世界観である。

 ここでいう「世界観」というのは、「剣と魔法の世界」とか「アレフガルド」とかそういうレベルの話ではない。「問題解決に至る道筋、または人生における諸問題の解決方法」についてのデザインである。つまりはゲームシステムというか、極言すれば世の中の仕組みと言っていいかもしれない。

 実は、ホームページ制作に限らず、そもそも「ドラゴンクエスト的」なものは我々の人生そのものではないだろうか。

 ドラクエにはアメリカ産の二大ゲームとは違った、大多数の日本人のメンタリティに非常に合致した世界観であり、それゆえにあれほどの大ヒットを記録したのではないかと私は思う。

 「ドラクエというゲームにおいて人生とはどのように表現されているのだろうか」ということだ。
 

 ドラクエでは、とにかくコツコツと敵を倒すという単純作業が肯定される。なおかつ、この敵を倒す行為によって得た経験、レベルアップが極力謎解きにも役立つように出来ている。ドラクエのイベントの多くが「強い敵のいるところに行ってアイテムを取ってきたり、人を助けて来たり」、だからである。

 ドラクエでは「絶対に解けない状態」には、陥らない。ストーリー上の進行は単純に経歴に加算され、分岐点にて悩むということがない。

 ドラクエには逸脱がない。小さなストーリーがこつこつと加算され、終幕に至る。

 ドラクエには失敗がない。戦いで全滅してしまった場合、多少の叱責とペナルティを受けるものの、何食わぬ顔で戦列に戻ることができる。よく気をつけて、次に失敗しなければ、それでいいのだ。

 ドラクエでは時間制限がない。時間制限という区切りのなかでAとBとのどちらかしか選べないという二者択一を迫られることはない。また不十分にしか用意できない劣勢のなか、ベターな方策を練るといった妥協的戦略を迫られる必要もないのである。

 こうした、ドラクエのゲームシステムの本質は、極めて日本的だなあとしみじみ感じる。

 

 ドラクエのこうした特質とは対照的に、前述した二つのRPGでは「謎」は大抵レベル上げとは無関係に出題され、それが解けない限り先へは進めないし、死んだらあっさりとゲームオーバーとなったり、容赦ない。それに比べて、いかにドラクエとは恵まれたシステムであるか。極端な言い方をするとドラクエには絶対に解けない謎はないのだ。

 また、前にあの場所で手に入れておかなかったばっかりに立ち往生してしまうという悲惨な事態もない。そう言う場合、引き返してアイテムを手に入れさえすればよい。


本当に人生はドラクエか

 人生はドラクエのようなものだ、と僕らは勝手に思っている。

 それは、人生がドラクエのようであって欲しいと思っているからだ。

 もし人生がドラクエのようであったなら、人生という道を歩むのに、ベクトル、つまり方向と量を考えるのではなく、差し示された方向に向かって進む量のみを考えればよい。量にしたって多いか少ないかの問題で、時間制限もないのでじっくりと経験を積んで事に当たればよいのだ。やり直しもきく。


 では、考える。

 もし人生がモノポリーのようであったなら?

 この場合、人生という道を歩むのに量は問題ではなく、ベクトルこそが問題となるだろう。こつこつとした努力は何の役にも立たず、細心の戦略とそして運が明暗を分けるだろう。そして小さな失敗が大きな敗北につながり、勝者と敗者がはっきりと分かれるだろう。
 

 まさに、その通りの事態なわけで、ドラクエにて体現される哲学というのは高度経済成長期の時代精神そのものである。

 昭和、特に高度経済成長期の日本人の人生というのは均質で、勤勉さと成功との間には相関が見られた。人生においてどのような選択を行っても、その与えられた状況のなかで「こつこつと」「頑張りさえすれば」幸福なハッピーエンドを迎えられることになっていたのだ。「どんなに頑張ってもどうしようもない」人生の分岐点はないものとされた。もし幸福な結末が得られないのであれば、それは「がんばり」が足りないせいなのだ。
 頑張れば賞賛された時代。

 まさに良くも悪くもドラクエ的な生き方が手本とされていたように思う。というか、ドラクエがこうした世界観で作られているのだ。

 が、残念ながら、現在の世界は、こうしたドラクエ的な世界よりはモノポリー的な世界の方向に向かっているのではないかと思えてならない。

 ドラクエのつもりでプレイしたゲームが、実はモノポリーだったというのは非常に危険なことではないだろうか。


 「頑張ればなんとかなる」というドグマはすでに崩れかけている現在も次々とドラクエの新作は発表され続けている。しかし、かつてドラクエというゲームに圧倒的に存在していた世界の臨在感をもし僕たちが感じられなくなったのならば、それは僕らの置かれている現実世界が変わったせいだ。

 今後、ドラクエは、そして我々の世界はどこへ向かうのだろうか。


(Apr. 2002初稿 改稿 Jan. 2006)