思考に抑制をかけること

—人生について



 昨日は中井久夫氏の本を読んでいた。
 面白いのだが、この本を読み始めて今日で三週目にさしかかる。読み始めると、寝てしまうのだ。

 無酸素読書にも書いたが、僕は寝る前に本を読む。これは強固に習慣化されている。一冊持って寝床に入り微睡むまでが現在の私に許された唯一の余暇時間なのだが、最近疲れ気味なのか、一冊を読み終えるまでにずいぶんと時間がかかってしまうのだ。知的好奇心を喚起するような本に限って、数ページも読まないでギブアップ、ひどいときには一ページも読み進まず、三日続けて同じページを開いたりする「俺レコード、スススススクラッチ状態」に陥ってしまうことさえある。

 というわけでかれこれ三週間悪戦苦闘しているのだが、この人の文章には内在する圧倒的な知力がはしばしに漂っているので、数ページ読む度に、はっとした発見がある。

 今読んでいるのは治療学的な話が主な本なのであるが、精神病の患者が発症する前、猛烈に勉強を始めたり、積極的な行動をとったりして、学級委員や生徒会長に選ばれたりする様なエピソードがあるが、これは間違いなく悪い徴であるらしい。残った余裕を食いつぶしているにすぎない行動なのだが、第三者にとってはむしろ好ましく捉えられることも本人にとっては悲劇であると。

 どきりとした。
 自分のことかと思ったからだ。

 今、私は研究室で猛烈に頑張ろうとしているが、無理をしている。たぶん無理をしている。そしてそれは自覚しているし、納得済みなのだが。

 無理をしているのはいろいろな外的な要因のため、無理をしてみせざるを得ない状況に陥っているからだ。しかし、このまま自分の能力を過信して100%の力で突っ走らない方がいいのかもしれない。

 自分の人格の100%を一つのこと打ち込んでしまうと、危険な気がする。毎日日記を書こう。どこかでガス抜きをした方がいい。


 僕の祖父は精神分裂病と思われる妄想型人格障害があり、自分にもその傾向がおそらくあるのである。

 大体僕は分裂気質なのだ。実はこの気質は祖父ゆずりのもので、祖父はいわゆる完全な既知外である。だから、いささかたちの悪い冗談風に言えば、僕のこの気質は「血統書つき」ということになる。


 僕の家には色々なものが置いてあって、もう二度と読むまいと思うような本なども捨てられない。だが、逆に考えるとそれらは むきだしの私の暴走を防ぐために置いてあるのかもしれない。それらは原子力発電所の制御棒のように、僕の力の出所を整え(あるいは弱め)、一つに集中するという役割がある。これは僕の暗黙知だ。


 ホテルなど、自分のモノががない部屋では、色々なことを実によく想起する。頭の中がざわざわして大きな渦を巻き、どんな理論だって考え付くことが出来そうな気がする。しかし、ただただ新しい想念が湧き出てくる気配があるだけで、結局ソリッドな形にはまとまらない。出所がなく、まとまりのある文章にならず、そして悶々とフラストレーションだけが溜まってゆく。

 逆に自分の部屋で、読んだことのある本に囲まれていると、昔の人の晦渋さが、自分の自由思考にブレーキをかける。

 こんな僕がまがりなりにも内科医を営んでゆけるのは、この制御の力のお陰に違いない。もっとも、こういう風な考え方をすること自体が既知外じみているのかもしれないが。