Left-handed

 僕は左利きだ。
 奇妙なことに父、祖父も左利きでB型だ。
 三代続く左利きというのは、濃厚なDNAを感じるのだが。
 何か意味があるのだろうか?

 ところで、僕が左利きというのを知ると「まぁ、器用なんだねぇ」とか「だから器用なんだね。」といった風なことを言われることが多い。実に多い。そんなときに僕はどう返事したらいいのか。どういった答えを求められているのか。

 きっと社交辞令なんだろうけど。答えなんか求められていないんだけど。

 よくわからない僕はいつも「はぁ」とか「ええまぁ」とか生返事をしてしまう。きっと「肩凝るでしょう?」と訊かれた巨乳さんとおなじなのかなぁ、思いながら。

 正直に言うと、この類のことを言われるたびにかちんと来るのである。

 何故彼らはそういうかちんと来ることを言うのか。左利き=器用と単純にインプットされているだけなのか?

「左利き=器用」という単純な公式は逆に言うと器用であること=生まれつきと言われているに近い。

 まるで「ああ、あなたは私と違って、『生まれつき器用』な左利き様でいらっしゃいますか。よかったですね、左利きで。あなたが器用であってもそれは生まれつき左利きだからに過ぎないんですよ」と言われているような気になってしまうのである。

 些か被害妄想じみている様な気がするが、考えてみれば左利き同士で「じゃぁ器用でいらっしゃるんでしょう」とか言われたことはない。言われることの意味をよく知っているからだと思う。



左利きは本当に器用か:



 そして。左利きは、本当に器用なのか?

 僕自身生まれたときからずっと左利きなわけだから右利きの自分と比べるわけにもいかず、比較は出来ない。ただ、一般の器用・不器用という線引きでは器用な方に入ると思う。ボクシングに「左を制するものは世界を制す」という言葉もあるし、確かに、周りを見渡してみても、左利きで器用というのはある種真理をついているのかもしれない。

 しかし、単に「左利き=器用」という風には公式化出来ないと思う。
左利きに生まれた人間がすべて『器用』というタレントを付与されて生まれてきたわけではないと思う。
 

 左だから器用なのではなく、器用にならざるを得ない状況だから器用なのではないか。これが私が左利きとして生きてきた結論である。

 左利きの人間にとって、世界のすべては、障害となって立ちはだかっている。
例えばドアノブ、例えば自動券売機のキップ挿入口、たとえば料理屋のカウンター。

 つまり、僕らは右利きの人間ならなんでもない動作の一つ一つに至るまで意識して動かないと動けないようになっているのだ。
「動作」というものを意識する時間が長ければ長いほど器用に動ける様になるのは当然ではないか。

そう。目の見えない人間が普通の人には考えられないほど耳がよいのと同じように、左利きの人間は器用なのである。

右利きの人よ、左利きの人間に褒め言葉と思って「器用でいらっしゃるんですね」というと不機嫌になる理由がおわかりいただけたであろうか?

「左利きは器用」という公式は、
「生まれが貧乏だったから(そのハンデをしょっている分頑張って)成功した」という公式に近い。
でも世間の「左利きは器用」は
「金持ちに生まれたから(その資産を有効に利用して)成功した」なのだ。
左利きが器用なのはハングリーだからだぜ。


左利きはなぜ面倒くさいか:


 例えば、ファミコンのゲームを考えてみよう。

 初期のファミコンにはAボタンとBボタンしかない。スーパーファミコンにはボタンが6+2個ある。ゲームをしてみるとよくわかるが、初めてのゲームをする時に初心者が動作を憶えやすいのは圧倒的にファミコンの方なのである。

 完全に習熟してしまったらボタン六個の方が複雑なコマンドを駆使することが出来るだろうが、初めての動きを憶える場合、ボタン二個の方が楽なのである。

これが、右利きと左利きの関係と同じなのである。

 右利きの人はとっさに動くときや新しい動作を憶える時、右側を中心に考えればよい。左の動作が頭に浮かぶことはないと思う。だから割と型にはまった動きをとれる。一方、左利きの場合、新しい動きを憶えるときにまず、それを右利き仕様で行うか、左利き仕様で行うか決めないといけない。それが難しいのだ。

 私は医者になりたての頃、注射をはじめ色々は手技を憶えていたのだが、実にこの左・右問題では苦労をした。例えば糸の縫合を習ったとき。まず先生に見本を見せてもらった後その動作を真似する。このとき右利きであれば、何も考えずに真似をすればよい。

 しかし左利きの私は、右利きのやり方でやると、よく動く手が反対なので、なんだかぎこちなく、手が思ったように動かず、もどかしいのである。では、左で同じことをやろうとすると、ちょうど見本と鏡像になるようにやらなければならず、頭の中で反転しなければならない。これは左手の器用さを帳消しにしてしまうほどややこしいのである。そして、左でやる方がよいのか右でやる方がよいのか悩んでしまうことになるのだ。

 こういう手技というのは最初は考えずに「型」はまるのが最もよいのだが、明らか型にはまるのは遅い。右の人間に比べ選択肢が倍多いだけにそれだけ動作のパターン化の固定が遅れるわけだ。

 そのかわり、一旦習得すれば左でも右でも出来る様になり、右でやれば無理な姿勢をとらざるを得ない様なシチュエーションで左に持ち替えて簡単にやることが出来るようになる。こういう結果だけみると「おっ、器用」と思われるのだが、何のことはない、習得する時点で倍の苦労がかかっているのだ。


 私が外科を諦めた理由の一つがこれであった。実習での糸結びでさんざん苦杯をなめ、いやになってしまったのである。