お好み焼き、特に広島風の特殊性について:



 元々実家は広島なのだが中学校以来ずっと神戸に住んでいる。だからお好み焼きといえば大阪風の方がむしろ食べ慣れている私だ。「普通のお好み焼き」といえば大阪風で、広島風のお好み焼きの方が自分にとっては「特別」である。


 広島風のお好み焼きの特徴といえばやはり重層構造であることだろう。

 普通の(僕にとって。つまり大阪風の)お好み焼きは生地と野菜を全部混ぜ混ぜにしてから焼く。ゆえにどこを切っても一様な、つまりアモルファスな構造をとることになる。

 一方「広島風」はまずクレープのように薄い生地を一枚やき、これが一番表面の層になる。ある種「基底膜」の様なこの最外層のおかげで全体に極性が生まれるわけだ。野菜は大阪風よりも多く、蒸し焼きにされ、確かに美味しい。





 広島風お好み焼きのおばちゃんはなぜか、誰も彼も、どの店に行っても、驚くほど無愛想である。
 まるで、「一つ、広島風お好みのおばちゃんは、客と接する時はできるだけ無愛想に振る舞うこと」
 と書かれた接客マニュアルがあるのか、と思うくらいだ。

 イギリス仕込みの一流のバーテンダーは客に対して無闇めったやたらと話しかけない、それと同じなのか?違うか。んん?
 

 無愛想なおばちゃんは、あくまでも無愛想に
「皿?鉄板?」
 と訊いてくる。これはできたお好み焼きを皿の上で喰うか、鉄板の上から直接喰うかということをどうやら訊いているらしい。小さな違いのようだが、大違いなのである。皿から食べるときは箸を使うが鉄板から食べる場合は「こて」を使って食べるのが正しい「お好み道」というものだ。


 なめるでない。神戸ではこてで食べていた私だ。勇躍「鉄板」を選択し、こてを手に食べ始める。

…っと、これは食べにくいなぁ。

 ちょっと考えて判った。広島風お好み焼きの「重層構造」の為だ。色んなものがサンドイッチ構造されている為に、端っこの辺りはどうもばらけてしまうのだ。だからその部分はぱらぱらと崩れ形が整わない。また野菜(とくにモヤシ)の繊維分が多いので「こて」で切りにくいのだ。

 「デートの時にミルフィーユを食べてはいけない」という諺があるが(本当?)それと同じような感じだ。

 そっか…ミルフィーユだったのか……。

私半熟は「広島風お好み焼きはミルフィーユと同じである」理論をここに提唱します。




 ちなみに、今私は岡山に住んでいるのだが、ここでのお好み焼きの基準がわからない。

 広島から大阪の間に分水嶺があるはずなのだが、岡山はどちらの勢力圏内なのか、その境界がどこなのかは判然としない。

 岡山の市内には広島風お好み焼きも数店あるし、純然たる大阪風のお好み焼きの店もある。もっとも、今時どこにでも『讃岐うどん』店があるのと同様、些か特殊である広島風お好み焼きは、今となっては地域性を測る物差しにはならないかもしれない。尾道とかだって、広島風お好み焼き屋が圧倒的なわけではないのだ。

 そういえば、こちらに来て一年目の日、古色蒼然とした定食屋で食べたお好み焼きは、金物の器にタネが入ったものが出てきて、自分で作る方式であった。岡山のお好み焼きは関西と違い自分で焼くのか。それともこの方が主流なのだろうか。店の古さからいうと、この方式が昔ながらのスタイルではないかと思われた。

 「客にお好み焼きを触らせない文化圏」である、広島と関西しか居住経験がない私は全国のスタンダードがどうなっているのかわからない。しかし、漫画「タッチ」では野球部の人間がお好み焼きを自分で焼いているシーンがあったように思う。コウタロー(漢字忘)がおいしそうに食っている絵が印象に残っている。

 ここからは自分の勝手な想像なのだが、発生当初はお好み焼きは純然たる料理とはみられなかったのではないか。最初の、「原お好み焼き」とでも呼ぶべきそれは、好き勝手に焼く、と、その程度の食べ物ではなかったかと思われる。

 一銭洋食という言葉にはその食品の地位が、そしてもんじゃ焼きにはその提供スタイルが残っている。そして、そこからいろんなものが進化していった。


 やがて、素人が焼くよりも優れた焼き加減を提供する店が出現する。店の方で焼く技術に付加価値をつけられるほど巧妙な焼き技術が発達した。その焼き方のスタイルは地方によって異なっており、土地の名前を冠した現在のスタイルが生まれたのではないかと思われる。

 おそらく岡山の旧い店で僕が食べたのも、タッチのコウタローが食べていたものも、原お好み焼きなのであろう。

(2002.7.15 初稿 Jun,2006 改稿)