The Way of Monarch

帝王学、という言葉がある。

ていおう-がく ―わう― 【帝王学】
帝王たるにふさわしい教養・態度・考え方などを身につけるための修養。

 言っていることは至極尤もだし内容的にも正しいのだけれど、どうしても人を居心地悪く、また不安な気持ちにさせてしまう言説が世の中には存在する。

 そんな例で挙げるのもどうかとは思うが、このHPなんか、どうだろう。

 非常にためになるページで、いいことを言っているのに、読後感として些かの後ろめたさとか突き放された感を抱かせる気がしませんか?我々が受けるこの独特の不安感というか居心地の悪さこそが、いわゆる『帝王学』といわれるものの本質なのではないかと思う。
 

 本来、「帝王学」というのは「帝王の為」に書かれた学問である。
 つまり言葉の定義としては「読者」を限定した学問というわけである。
 現代では、帝王学の受講者であるべき「皇帝」は居ない。
 ゆえに『帝王学』は民主主義とともに消滅した。

 というわけで、現代においては純粋な意味での「帝王学」というものは存在しないはずだが、帝王学という言葉はいまだに残っている。なんとなく高級感を感じるためだろうか、ビジネス本、ハウトゥーものの本にこういった語が冠せられることはままある。そもそも本邦には帝王など存在したことすらないはずなのに、この言葉は未だに廃れていないのである。

 ま、似たような例に「スパルタ式」という言葉もある。「スパルタ式の受験勉強」ということを言ったって、ギリシア時代のスパルタに受験勉強があったとは思えないし、まぁ、杓子定規に捉えることもあるまい。

 というわけで、「スパルタ式」に共通のニュアンスがあるのと同様、「帝王学」と呼ばれるスタイルの学問に共通するスタイルというものはあるのだが、それはいったいなんだろうか?
 
 

 「帝王学」とは、定義を「読者」に拠らず著者の姿勢におくものであると私は思う。
 「帝王学的」な史観、姿勢にて構築された学問が「帝王学」だ。
 つまり「帝王が読むために作られたもの」ではなく「帝王に読ませようと書かれたもの(たとえ「帝王」が読むことはなくても)」が帝王学なのだ。

 純粋な「帝王学」の読者はもう居ないわけだし、牛乳は仔牛を養う為に牛が出すものだが横からそれを我々がかっさらって飲んでもやはり牛乳なのである。



  

 では、帝王たらしめる性格とは、どのようなものか。

 帝王は他人の忠告を得にくい。一部の忠国の士を除いて、帝王に諫言する者は少ない。忠告するときは命賭けだからだ。従って、帝王は他人からの批判無くても自分の内部に批判的精神を内包し、常に内省を繰り返しながら事を成さなくてはならない。(もっとも、一部の優れた帝王を除いたほとんどすべての古人の帝王達はこのような批判的精神を有さない。)

 帝王はよく頑張ったねと褒められることはない。帝王が朝歌にて為すことは他人の目には触れない。従って途中のプロセスは評価されず、常に成果のみで評価される。成果主義である。

 帝王は自分の欲望を抑えなければならない。富は無尽蔵にあれども浪費は国力の低下を招く。従って、帝王にはありあまる富に囲まれながらそれに手をださない禁欲性が求められる。(もっとも、この浪費への誘惑に抵抗しえた帝王というのはますます少ないわけだが。)

 実に古来より帝王学はこのような帝王というものの性格を熟知した賢人によってかかれた帝王の処世術である。

 上記のような、甘えを許さないような姿勢、努力よりも成果主義、自己を圧殺すべき厳格さなどのニュアンスが帝王学の持つ特徴なのでは無いかと私は思う。従ってこれらのエセンスを含むものを『現代の帝王学』と言ってもよいと思う。




 ところで。
 こういう自己抑制を極度に強いる姿勢にて書かれたものは、実利的には極めて有用だが、時として人を不安や不愉快にさせる事がある。

 まさに、『正論』が人を傷つけるのである。

 実は私は昔から、そういう人を圧迫するような(人を反省させるような)話し方をすることが多い。私の定義によればまさに帝王学的な話し方をしてしまう。
 数々の人を傷つけてきたし、今も残念ながらそうだ。
 だが、敬して遠ざけられるのはつらい。しかしこういう姿勢はやめられない。

 孤高という一語で括られることもあるが、そんな生やさしいもんじゃない。

 それを正当化するか、改善すべきかは今の時点ではわからない。ただ、このように帝王学的な態度をとり続ける限り、私の孤独感は癒されないだろう事ははっきりしている。
(2000 7/8日記改変)

Y's Diaryさんの日記より:7月8日 『おかしな男 渥美清』はイタイ本だ
読んでいただけたらわかると思うが、渥美清は『帝王』だと思う。