ああ〜、のど自慢。


(↑『大都会』みたいな感じで)

 …なにもない日曜の昼、ついつい油断して漫然と過ごしていたら目に入ってきてしまうのは『新喜劇』と『のど自慢』である。

 そこでこの状況に対し危機感をもつかどうかが、充実した日曜日を過ごせるかどうかのターニングポイントとなる。ここで、一念発起し、街に出るという選択枝を選ぶか。

 そこで反省せず、さらにだらだらしていたら、「笑点」までいってしまう…

 「ちびまる子ちゃん」は私にはいつだって物悲しい。

 まぁ、街に出ることが即充実した休日とはいえないけれど。
 

 「カ〜ン」
 今日も鐘の音が出演者の運命を決める。

 いままで放映された何十年の間に、一回くらい、審判の愛のない「カ〜ン」に村を挙げてブーイングとか、本ギレした人(ex.村役場の助役 62歳 結婚当時を思い出し歌います バスストップ バ〜スを〜〜…カーン)とか、なかったんだろうか?

 あの鐘にはそれくらい人を揺さぶる力はある。少なくとものど自慢に出る事を望んでいる人にとっては。
 

 そもそもが、「のど自慢」という言葉だ。実に趣深い。「のど」の「自慢」なんだもん。直接的に解するとすごい意味だ。

 以前、ナンシー関女史が、『くいしん坊!万才』について言及したことがある。  
 山下真司はこの番組が19年かけてやっと見つけた本物の食いしん坊であると、しみじみ思う。
 これまでは、「くいしん坊」という言葉の解釈の仕方に問題があった。本来の辞書的な意味である「意地きたなく、何でも食べたがる人」のマイナスイメージを打ち消すためなのか、いつのまにか「くいしん坊」と「グルメ(食通)」を故意に混同させた経緯も読み取れる。
(ナンシー関 『聞いて極楽』より)
「のど自慢」に関してもおなじである。

 評価軸なんてわかりゃしねぇ。のど、だもん。吼え猿じゃないんだから。

 しかし、こういう風に本来行われていることを少しだけ言い換えてタイトルをつけた番組は長続きする。
「のど自慢」、「くいしん坊!万才」しかり、「笑っていいとも」しかりである。
 
 しかし結局、のど自慢の醍醐味は「カ〜ン」という乾いた鐘の音に集約される。
 鐘の音という、『最小限の介入で人の運命を最大限に左右する』審判(もとい鐘鳴らし係り)という存在。

 僕も是非なってみたい。
 「のど自慢」の閉じられた世界の中では全知全能、デウスにも匹敵しうる存在。


 現実世界でこれほどまでに全能感のある職業は少ないのではないだろうか。裁判官だって、法律に則って判決を下すわけだし、なるまでには沢山勉強しなきゃならない。

 少なくとも『核ミサイルのボタン押し業』(別の名をアメリカ合衆国大統領ともいうが)よりカタルシスがあるような気がするが、いかがだろうか。

(2000 9/9日記改変)