Family-Restaurant



ミヒャエル・エンデ「モモ」が時間の国から戻ってきたときに馴染みの店が効率重視のカフェテリアになっていたシーンがある。
昔の友人は皆時間にとりつかれて、どこもかしこもそんなおかしな状況になっていることにモモは絶望するのだが、日本のファミリーレストランよりはましな状況に思えた。
我々は小説の先をいっている。

男が独りでご飯を食べに行く時は、何処へ行ったらいい?
 
 勿論女の人もそうなんだろうけど、家の近くに行きつけの店が無いと独身男性は非常に困るのである。

 岡山はそこそこ都会で、いい街だと思うんだけど、夜が更けてくると大都市圏とはやはり違う。飲み屋なんかは結構良い店があると思う。しかし、普段の食事の店は早く閉まってしまうのだ。

 「深夜」に活動している人の数が都会に比べて圧倒的に少ないのだろうか、岡山では人は夜ちゃんと寝るのである。
 
 というわけで、ファミリーレストランへ行く。仕方なく。
 実際一人でご飯を食べる場合、あんまり高い店だと困るわけである。店の方だって男が一人でのっそりと入ってきたら困惑する(一人で入るには僕はまだ若すぎる)。それに、一人で食べるちゃんとしたご飯は、いくら美味しくても周りが気になって気詰まりだ。

 高級な店は20代の男が一人でご飯を食べるようには出来ていない。


 だが、矢張り、ファミレスでご飯を食べるというのは楽しくない行為だ。
考えてみれば、ファミレス、全国何処に行っても同じ値段、同じ味ってすごいことだと思う。それに何回行っても失敗作が出てくることは殆どない。

 偶然性の完全なる排除。
全部の面に3と書いてあるサイコロを振っているようなもんだ。
 1がでて大失敗することも、6が出て大満足することもない。
ゆらぎのない完全に静的な空間。

 …ウエイトレスも、店の作りも、料理も、音楽もこの場所と全く同じ空間が他にも何百とあって、同じように時が流れている。
過去も、未来も。

 僕は今清輝橋店Royal Hostにいる。その同じ時間の神戸駅近くのRoyal Hostと、今から一週間前の清輝橋Royal Host、誰がそこで何をしているのか、僕にはわからない馴染みのない空間という意味では同じだ。
ただ、同じように、
 顔の無い街にある
 顔のない店は
 顔のないウエイター・ウエイトレスが
 顔のない客を迎え、静かに食べているのだろう。
 コックのいない、顔のない料理を。
 

 そういった状況は、P.K.Dickの書くモチーフに近いといっても言い過ぎではあるまい。地獄的、といってもいいと思う。そんな処へわざわざ食べに行かなければならないほど、僕はお腹、減っていないぞ、と思う時もある。

 考えてみれば「ファミリーレストラン」という言葉の割に、ちっともファミリーではない。こうしたアイロニーもP.K.Dickの好むところだ。


(2000/9/9 日記改変)