島田紳助 暴力事件とは何だったのか

 詳細は、こうだ。

 2004年10月25日に大阪・朝日放送で『クイズ!紳助くん』収録の前に吉本興業の女性マネージャーと口論になり、首を殴って頸椎に捻挫を負わせていたことが明らかになった。女性マネージャーは大阪府警に被害届を提出し、10月28日付で傷害事件として正式告訴された。同日には吉本興業の東京支社で記者会見にて謝罪した。

 これを受けて吉本興業では11月4日まで紳助を謹慎処分とし、期間中のレギュラー番組については、各局ともテロップ(収録した日付など)を挿入して通常通り放送した、但し『行列のできる法律相談所』については法律をテーマに扱っているだけにテロップ挿入で放送というわけにはいかず、緊急生放送として事務所の後輩で番組レギュラーである東野幸治を司会に立てて放送した。
(wikipedia:島田紳助の項より)
 

 とりあえず、押入に入れていた「俺たちひょうきん族」のメモリアルDVDを出してみた。今みながら書いているわけである。

 うーん、昔の紳助は悪そうだ。人を叩くのがいかにもしっくりくる姿格好。

 しかし「元ヤンキー」臭をぷんぷんさせていた、いわば「ストリートブランド」だった昔の紳助とは違い、次第に芸歴を広げ、堂々たる司会ぶりを示す今では、お笑いにとどまらず知的なポジションもこなし、王道を歩む堂々たる芸能活動といってもいい。おそらく望めば議員にもなれるポジションにいる今の彼には、確かに人を叩いたりする行為はあまり似つかわしくない。

 この事件を後になって考えてみれば、様々な集団における共通認識の齟齬という点で考えると理解しやすいように思う。


企業内文化は、どこまで力を持ちうるか?


 まずは「つっこみ文化」の地位である。

 例えばダウンタウンの浜田の『ツッコミ』に対し俳優とかミュージシャンなど他業種のタレントがクレームをつけたとか、そういう話は以前からもあった。お笑いという枠を取り去って考えれば、基本的にツッコミという行為は暴力の要素を含むんでいる。つまり、こうした行為は双方にそういったコンセンサスが得られている「お笑い空間」の中でしか許されないことである。

子供同士の「いじめ」でも、その第一歩はテレビのお笑い番組など模した形態に端を発することが多いのも、このツッコミの暴力性をよく表している。共通認識のないツッコミは、暴力なのだ。

 が、お笑い芸人はそういった行為をテレビの中で日常的に行っているがゆえに、そのコンセンサスのない場でもこうした逸脱をしがちだ、という想像は成り立つ。たとえばたけしのフライデー襲撃事件なども同様の文脈ではないか。要するに「コンセンサス」が得られているかどうかを読み違えれば、暴力事件として顕在化するということだ。(もっとも紳助はテレビでも非言語的なツッコミは近頃は滅多に入れないが)

 問題は、殴られた女性もまた吉本の社員であったというところにあると思う。
 紳助の態度が変わったのも相手が吉本の社員と知ってらしいし、おそらく紳助は、吉本興業の社員の間にはそうしたお笑いに関するコンセンサスが成立しているという認識は前提としてあったと思う。

 が、現在の吉本興業は多角化された総合企業であり、「お笑い」は現在でも最も重要なメインコンテンツであることは間違いないが、それだけではない。つまり、こうした「お笑いのコンセンサス」の尊重が企業内文化として通用しなくなっていた、その認識の乖離がこの事件の真相ではないか。件の女性は帰国子女ということだが、それは象徴的であると僕には思える。彼女は明らかに「吉本のお笑い」に浸淫した経験がなさそうだ。※

 しかし、やはり吉本興業のルーツは上方お笑い文化であり、それは、メインコンテンツでもあり、企業アイデンティティと言ってさえいいかもしれない。だからツッコミというもの自体に冷や水を浴びせるような今回の事件は、吉本にとっては大きな痛手ではないかと思った。

 例えばテレビで「非お笑いの人に、腹を立てないギリギリの線でツッコミを入れる」という場面はちょくちょくみかけるが、これはその場の空気を読み、ギリギリの線でコンセンサスを形成するところが醍醐味であるわけだが、今回の事件によって、その類のツッコミは入れにくくなったと思う。なにしろ自社の社員をはたいても、被害届を出されるのであるから。吉本が提供していた「ツッコミ」という商品にリスク要因が生じ、その結果商品としては提供しにくくなったわけで、それは大局的には吉本興業自体の企業価値にも影響するだろう。

 吉本興業が、この社員である女性をかばう姿勢があまり見られなかったのは、そういう理由が働いたのではないかと、私は思った。


なお、煩雑なので松竹芸能は考察から外したが、大意に変わりはない、と思う。
 後日、この女性は関西漫才ブームの時に「のりおよしおファンクラブ」を創始した人物と聞いた。そうであれば、この時点での私のこの推察は全く間違っていたことになる。
 帰国子女であるということも、実は対立側の流した情報であるという噂も聞いたが、これは真偽がはっきりしない。

では、100%悪いのか?

 事件そのものを単純化して考えると、同じ会社の男が女を殴った。
それだけのことだ。

 組織の論理からいうと紳助の言い分にもひょっとして幾らかの正当性があるかもしれない。しかし近代社会では会社と人との契約よりも社会と人との契約の方が強い。組織内の論理はその構成員に対し全能の力を持っているわけではない。社会が保証している権利を侵害する権利は(たとえ、会社が支持をしたとしても)紳助にはないのだ。ゆえに、いかなる理由であっても暴力は許されることではない。

 結局の所、企業内で決められたルールというのは、その外の大きな社会の枠組みでの法を超克することはできない、ということだ。

 だから、当然、紳助は悪い。明らかに。
 これは当然のことで、そこに議論の余地はない。

 ただ、そういう、かなり単純化された結論でよいのだろうかという疑問は当然ある。

 まず、紳助が悪いのは確かだが、その罪悪に対する償い方にも当然、重い軽いがあるのではないのだろうか?例えば、医療過誤などの裁判でも、かなりの過失があったとしても最終的にはどれだけの障害が患者に生じたかで賠償額の重い軽いが決まる。そういう見方をすれば、今回の頸椎ねんざが、どれだけの罪に問えるのかというと、この女性の主張する「業界引退」に値する罪科であるかというと、少し疑問が残る。

 確かにCMとかテレビは潔癖だから、たとえ軽度の傷害罪であっても、タレントイメージが蒙るダメージは金銭に換算すると数億に上るだろう。結果的に民事賠償でなくても、刑事で微罪を勝ち取れば、女性側の勝利だ。そういう背景があるから、紳助の「責任の取り方」というのはオールオアナッシングというとられ方をするが、もっと中間の値はないものかね。

 もう一つ気になるのは、紳助は悪いということが、それはそのまま女性側はまったく悪くないということを意味するのか?ということ。日本には「喧嘩両成敗」という言葉もありますし(これは後々意味をもってくる)

日本的な文化的土壌

 問題はその事件そのものではなく、事件の解決のプロセスなのだろう。これに関して、今回の事件の被害者の女性が帰国子女であるというのは、極めて重大な意味を持っている、と思う。

 なぜなら、彼女は日本的なネゴシエーションを完全に無視しているからだ。

 日本的なネゴシエーションとは何かという話だが、それは「和の精神」である。(この辺りは梅原猛とか井沢元彦とか、司馬遼太郎とか読んで頂戴)。簡単に言うと、「最後には締結することを暗黙の了解として交渉のテーブルに着く」ということを意味する。交渉のテーブルにおいて、条件の多寡で争うことは許されるが、交渉そのものを決裂させようという行為はかなりの嫌悪感をもって受け取られるし、ジャッジメントの結果については双方が納得したという態度を見せることを暗に要求される。

 日本的なネゴシエーションは、ある種の自由度を失った窮屈なものだ。しかしその分、高い交渉締結率が、全体として効率のよい社会活動を可能にしている。これが日本的なネゴシエーションの功罪である。

 しかし、当然それはグローバルスタンダードではないし、対立する相手がそういう流儀をもたない場合、日本的なネゴシエーションは極めて弱い。よく日本企業が海外進出初期に痛い目に遭う、あれである。

 彼女は今のところ※実に「海外的」つまり非日本的流儀で事を運んでいるように見える。吉本は大企業の割には超ドメスティック企業なので、実は吉本の内部は、そういうグローバルスタンダードのネゴシエーションに対する経験があまりないのではないかとさえ思う。むしろ彼女こそが将来的には吉本の中でそうした海外事業を担当する人間になりうる存在だったのかもしれない。

 そういう点では彼女はクレバーである。

 法という場で見ると、上に述べたとおり、企業内文化など、何の価値もない。島田紳助を擁護するものは、何もないのだ。


日本の法廷は、グローバルスタンダードに沿うているか?


 ただ、彼女は二つ大きな勘違いをしていたと思う。

 一つは、裁判に持ち込めばオーケーと思っているところだ。確かに、アメリカの裁判所ならそれは間違いなく彼女の思う通りのネゴシエーションが出来るだろうが、日本の裁判所はやはり裁判所でこそあれ、それ以前に日本なのである。

 法律に添って裁くとはいえ、裁きを行う人間はやはり日本人だ。日本の裁判では西洋的な法精神をバックボーンとしている割に「和の精神」がしばしば顔を覗かせる。整然と敷き詰められた芝生に一部雑草が進出してくるように、和の精神は無意識のうちに一点のシミもない西洋的法精神を浸食しているのだ。そうでなければ日本の裁判の和解率の異常な高さ、罪を認めて悔悛した被告に対し罪が減じられるという現象を説明できない。

 「表沙汰」にせず吉本社内で収めるというのは日本的ネゴシエーションに委ねるということを意味するわけで、それでは自分の目的が達成出来ない。ゆえに論争の場を裁判という場へ移そうとした彼女の判断は正しい。だが、そうやって安全地帯にやってきたと思ってもやはりそこは日本教の支配する場所なのだ。やはり彼女の思うネゴシエーションはうまくいかない可能性が高い。

 もう一つの勘違いは、相手が悪いということを全面的に宣伝し、自分の方には幾分も非がないという態度をとっていることだ。これは非日本的なネゴシエーションでは当然のことだが、日本的なネゴシエーションの文脈では極端に嫌われる行為だ。

 基本的に非日本的なネゴシエーションは対立する相手と結果を取り合う、いわばゼロサムゲームである。だから対立する相手には有利な点をできるだけ渡さず、自分の有利な部分は最大限にアピールする。お互いに自分100相手0を主張して、ジャッジする人間はそれを元に判断し、双方の取り分を裁定して決める。これがグローバルスタンダードで、彼女のそういう行動はまったく合理的である。

 だが、我々はこの言動に違和感を抱いているよね。それは我々が日本的なネゴシエーションを前提に考えているからだ。

 結局、ゲームのルールとしては日本的交渉は非ゼロサムゲームなのだ。ゼロサム的な対立も行いつつ、交渉を成立させようと交渉の「場」にアピールするというファクターがゲームには加わる。第三者がジャッジをするのではなく、第三者を中心として対立している双方もジャッジに参加することが求められるのだ。自分100相手0をたとえば自分90相手10とか、自分から切り崩してみせたり、交渉をまとめる気があることを示すのである。

 簡単に言うと、紳助が記者会見で非を認め、泣いてみせたのはそういうことだ。あれは、紳助が日本的な流儀でネゴシエーションする気があるという、デモンストレーションなのだ。

 逆に件の女性のようにあくまで相手ゼロ自分100の態度をとり続けることは、日本的ネゴシエーションを拒否しているわけで、これは日本的な人間にはもっとも嫌われる行為なのである。いつまで経っても交渉が成立しないからだ。我々がこの女性側の行動に違和感を抱くのはそのためだ。

 違和感どころではない。すべての日本人にはそういった外国とのネゴシエーションで惨めな醜態を晒した先祖の記憶(ルサンチマン)が植え付けられているわけで、ああいう態度はそうした先祖の忌まわしい記憶を呼び起こす。我々日本人の逆鱗に触れる可能性がある。暴力行為という明らかに相手が悪いという状況の割に、女性が世論の支持を得られなかったのはそのためではないか。

 女性は、暴力によって基本的人権を侵害されたわけで、その点に関して公に訴えることは当然といっていい。ただ、こういう交渉プロセスをとるならば、それは、日本的ネゴシエーションというドグマに対する挑戦と受け取られかねないわけで、これは、日本人が形成する社会の基盤を脅かす脅威ととられるだろう。そういった脅威は、時として彼女の受けた暴力に対する同情を相殺するものにもなりかねない。

 もちろん、こういうことは表面的には見えない。だが、一見西洋的なシステムの中でこうした日本的なものは今も生き続けているわけで、そういう非言語領域でのコンセンサスが、彼女の訴えをなんとなーく無害化してしまうかもしれない。彼女はそれをどろりとした粘液のようなイナーシャ(惰力)として感じるだろう。不気味な不作為、西洋人がアジア的な不作為とよくいうアレだ。

 結局、女性マネージャーは大阪府警に被害届を提出し、10月28日付で傷害事件として正式告訴された。同日には吉本興業の東京支社で記者会見にて謝罪。

 これを受けて吉本興業では11月4日まで紳助を謹慎処分とし、芸能活動自粛を無期限延期としたが、2005年1月2日に『行列のできる法律相談所』内の生放送で復帰のあいさつと、事件についての謝罪を行い復帰した。

 大阪府警大淀署は11月4日、紳助を「被疑者」として傷害罪の疑いで大阪簡易裁判所へ書類送検し、略式起訴で30万円の罰金となった。

 女性マネージャー側は事件当初記者会見等を行い、徹底抗戦の構えをみせていたが、その後メディアでは大きな報道はされず、民事訴訟についても不明。女性は休職後吉本興業を退社した。

 限られた情報で判断するしかないが、女性側は被害届を取り下げることなく、島田紳助は傷害罪として起訴されたことになる。

 法廷において、この女性の言い分は認められた形となったが、その補集合である社会において、島田紳助側の方が、印象操作に巧みであったと言わざるを得ない。日本的な文脈をより知悉していた(それは、より視聴者の側を味方につけることが出来た)のは島田側であるということだ。

 法律では島田紳助を保護することは出来ないが、「傷害罪を犯した人間を本来ブラウン管に出すべきではない」というルールには法的根拠はなく、テレビ関係者および視聴者の暗黙の了解は、こうしたルールを無効化することで、法廷とのバランスをとった格好となった。

 結局の所、日本的社会では、明文化されないルールを弾力的に適用することで日本的文脈を維持している。


医師として思うこと:

 ところで、気になったのが「救急車で近くの病院に運ばれ「頚椎(けいつい)ねんざで軽傷」と診断された」というくだりだ。

 ここからは僕の推測が多分に入るので、誤謬はあるかもしれない。異論があればすぐ撤回します。

 被害届を出すためには、診断書が必要である。だから、こういう診断になったのだと思うが、過去、こうした診断書を書かされた経験からすれば、この書き方なら、客観的に明かな外傷は、多分ない。

 患者サイドの「強い」要望があれば、軽傷でも診断書を書かなければならないし、「絶対に大丈夫なんだな!?」と詰め寄られると、まったくの無傷であると書くのもためらわれる。後になって精査をして障害が見つかったということになると、見逃しがあったということでこちらが訴えられかねない。

 そこで、頸椎ねんざだ。頸椎ねんざとか、むちうち症とかいう病名は便利なもので、数週間後になって首の痛みなどがでたりすることもあるし、画像所見でははっきりせず自覚症状のみであることもある(よくある)わけで、つまり症状、重症度が可変であるということだ。この事例には格好の病名であると言えるだろう。

 紳助の弁護をするわけではないが、昔の彼は人を殴り慣れていたはずで(全然弁護になっていない)、逆に言うと殴り加減というのはよく知っているはずである。そんなに無茶に殴ったわけではなく、「上手に」殴ったのだと思う。頸椎ねんざという病名からすれば皮膚面に跡も残らなかっただろう。

 診断書を書けといわれても、担当医はそうとう苦慮したのではないかと推察する。納得する診断書を書くまで、帰らなかっただろうし。

 

 さらに、気になるのは、結果的には「頸椎ねんざ」であったごく軽い外傷に対し、救急車で病院に行ったことである。命に関わるような傷を負わせたというのか。救急車の意味を取り違えている。現場ではさぞやギャアギャア騒ぎになっていたのではないかと思うが、果たして救急車を呼ばせたのは本人か、それともそういう事態になったことで、配慮をした局側か。いずれにせよ、救急車で病院に行ったということは、病院に到着後も最優先で診察を受けたわけで、その分真に救急医療を要する患者に対し使われるべき医療資源を無駄に使おうとした不見識は、責められるべきだろう。「私はこんな大変な目にあった」ということをアピールする演出の小道具ではないのだ、救急車も救急医療も。

 嘘か真かしらないが、小千谷市にてマスコミが被災者用の食料の一部を優先的に横取りしたという噂がネットにて流れているが、この一件も同じ様な心理構造から来ているのではないかと私は思った。
 

 そりゃサービス業ですから、なんでもしますけど、こういう「診断書書け」という要望が一番我々が困るところなのだ。医師の診断書はオールマイティーな効力を持っているので、患者が自分を利する「さじ加減」を要請することはまれではないし、しばしばその要請はかなり執拗である。

 患者のニーズを満たすために「虚偽とはいわぬまでも、かなり信憑性に欠ける診断書」を書くことはままある。

 書かされる方の身にもなってみろってんだ。

 僕が今まで書いた中で一番ひどかったのは、健診で引っかかった高尿酸血症、高脂血症の方が、診察の後、「じゃあ、一週間ばかり仕事を休みたいから、診断書を書いてくれ」っていうのね。いや、生活習慣病だから無理ですよと言ったが、「じゃあ鬱と書け」という。職場の人間関係で悩んでいて、それで酒を飲まずにはいられないとかおっしゃるのだが、うだうだ一時間ばかり押し問答をした末に、待っている患者さんが増えてきたので仕方なく書いたが、その後一ヶ月くらい悩んだ。

 診断書に関しては、これに限らず「果たしてこれでよかったのか……」と今でもわからない事例が少なくない。診断・治療で振り返って反省する事例よりも多いかもしれない。

 確かに、治療や診断と違って、診断書によって「明かな損害」とか「不利益」というのはあまり生じない。しかし、医師の良心の真ん中辺にあるかなりやらかい場所に肉薄するような事例はちょくちょく経験する。

 

 女性側は紳助の謝罪会見を見て「傷ついた」というコメントを出したが、これは、紳助が謝罪会見で流した涙と同じくらい嘘と考えていいと思う。言い方が悪ければ、女性の「傷ついた心」は「紳助の流した涙」と同じ程度に真実である、と言い直す。

 肉体的な怪我の程度は裁判で問題になるだろうが、本当に傷ついたのはこの女性のプライドであるだろうし、そういう意味では女性は意図的に裁判の重心をずらそうとしているとも言える。精神的自己を傷つけられたことを肉体的自己に対する傷害とすりかえて訴えるのだから、そりゃ肉体的自己が傷つけられていないと話が成立しないのだ。だから救急車で運ばれなければいけないし、診断書も必要なわけだ。

 だけど、そういうツールとして医療機関や救急制度を使うことに対しては、僕はあまりいい印象を抱くことは出来ない。これは単に自分が医療関係者であるからなのだが。


(2004.10月初稿、2006.4月改稿)