Like a Robot...

ロボット三原則:
●第一条  ロボットは人間に危害を加えてはならない。また危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
●第二条  ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、第一条に反する場合はこのかぎりではない。
●第三条  ロボットは第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己を守らなければならない。
 高名なるアイザックアシモフ先生の提唱した概念である。

 今となっては、こんなもの誰も正当性を信じちゃいないが、未来に対する素朴な期待感が横溢していた「50年代アメリカ」ならではの牧歌的な雰囲気が窺える。まったく、トヨタの工業用ロボットにはさまれて腕をつぶした人はなんだというのだ。

 それにしても、機械ちゅうやつは辛抱強い。

 軽々しく「PentiumVパソコン」など、いうが、例えば「CPUのクロック数が500MHz」というと一秒に500x1000000回の演算が出来るわけである。

 仮に、すすけた中年の会社員が一本指でワープロをポチ..ポチ..と打っている場面を想像してみよう。

 おっさんの打つ速度は幾ら速くても1秒に1文字を越えるまい。その1秒1秒の間、パソコンは500x1000000回の演算を出来る能力を持ちながらほとんどその能力を発揮することなく、おっさんの入力を辛抱強く待っている。おそらく彼にとっては永遠に近い時間を。おっさんが何とか入力を終え、変換ボタンが押された瞬間、彼は待ち時間の長さに毒づくこともなく黙々と複雑な演算を行う。おっさんにとってはまさに瞬間にも等しい時間で。
そして次の入力があるまで再び無限とも言える時間を待ち続ける。

 もしコンピューターに我々と同じような自我というものがあるなら、時間感覚だって同様にあるだろう。器械が我々のタイムスケールに合わせなければならないとしたらどれだけ苦痛なことだろうか。

 愚鈍な主人の命令に逆らえない有能で忠実な家来。

もし、彼に意識があるとして、生まれたときからそういう風に「人間には絶対逆らえない」という制限があることを悟った気分はどうであろう。

 これが「ロボット三原則」の正体だ。

 それが平気だからこそ「ロボット」なのかもしれないが。

西洋文明社会では、「Under control」という言葉のもつ意味は我々が考えているよりもずっと厳格でシビアなもののようだ。

「ロボット3原則」というのは、いわば、「願望」だ。

 この「原則」とは、トップダウン式の社会で、上位の人間が自分より下位の人間に対して行う要求を純粋に理想化したものである。
 西洋人は、もし自分の部下、家来の生物的な限界を考慮しないですむという条件ならば、まさに極限まで下位のものを拘束したい、と言っているわけだ。非人道的な指示こそ合理的なものと賛美さえする。

アシモフの第三条では、ロボットは自殺すら封じられている。
自殺の自由も無い。
これはちょっとした地獄であると思う。
 

 幾らそれが理不尽であっても、ロボットはそのように「プログラム」されているからそう行動せざるを得ない。

 ロボット三原則というものが滑稽さを伴うのは、人間なら「基本的人権」に抵触する部分が「プログラム」という「制限事項」によって自己決定できない点だろう。

 ロボットはまさにロボットであるというその存在様式においてはプログラムの解除、つまりデプログラムは出来ない。

 しかし人間の間ででも、その様に自分一人の力では「デプログラム」できない「プログラム」は存在する。

被差別部落、インドのカースト、そして天皇家。

いささか、個人的な話になる。

 振り返って考えると僕は幼少時から「出来れば医者になってほしい」という親の方向付けをプログラミングされて育った。もちろん僕は順調に進学して今、ちゃんと医者になっている。そういう意味でそのプログラムが間違っていたわけではないけれど、プログラムされた人生という点ではロボットと同じだ。境遇の良い奴隷か、境遇の悲惨な奴隷かの違いだけだ。

 もちろん僕は人間だ。プログラムを解除することは簡単なはずだ。
しかし、僕の両親は非常に注意深く僕をプログラムした。そのプログラムをはずすとことを考えつかないくらい周到に。

 ノミのサーカスを仕込むときに、ガラスのビンにノミを入れる。ノミは当然逃げようと飛び回るが、ガラスのために逃げられない。やがて、ノミはだんだん飛ばなくなる。それでも外から脅かしたりしてノミを無理矢理飛ばす。そして、いよいよ飛ばなくなって、最後にノミは一度飛んだあと、もうどんなに脅かしてもノミは飛ばなくなってしまう。そうなるとビンから出してもノミは絶対に逃げない。ノミのサーカスはそうやってそれから芸を仕込むのだという。

僕には自殺も出来ない。第3条によってしっかり縛られている。

 実際僕は幼年期から、青年期を経て人格形成を概ね完成させたわけだが、どちらかというと「自殺しにくい性格」に育ったんではないかと思う。わりと打たれ強いのだ。

 そういう風に育ちきった今の性格では、自殺を賛美する気はさらさらないわけだが、そういう自分を客観的にみていまいましく思うときもある。

太宰などの自殺賛美文学に触れたときになお思う。