Black dots and a white dot.


 たとえば風景写真を撮ったりします。現実の風景が二次元の紙の上に転写されますね。あれは現実を沢山のドットの集まりとして擬似的に代替しているに過ぎないけれど、それをみれば我々はもとのものをばっちり再現できるわけです。

 デジタル画像ではこうしたシステムはよりはっきりしておりまして、広大なマトリクスの一つ一つに色情報を埋め込んで、我々の網膜に映る像を擬似的に表現しています。弁別出来ないほどの色数や無数のドットで形成されているため、我々にはその一つ一つのドットを認識出来ません。しかし拡大して見ると、デジタルなものというのはやはりそうと知れるわけです。

 話を単純化するためにモノトーンで考えてみます。

 モノトーンでは白か黒のドットで映像を表現します。たとえば白いドットだけ並べると真っ白になります。黒なら全くの真っ黒になります。それではその中間の階調を表現する場合、白と黒をある一定の比率で混ぜれば色の濃さが表現できますね。白黒白黒白黒……と並べたものよりも白白黒白白黒……と並べたものの方が明るい灰色になるでしょうし、白黒黒白黒黒……と並べると暗い灰色になる。

 白白黒……と並べられた明るい灰色から、一ドットを引っこ抜いてくれば、それは白か黒かに違いありません。でも灰色から引き抜いた一ドットは、白と黒のいずれにしろ、灰色ではありません。一ドットは全体を表現できないし、逆に言うと一ドットからもとの色の明るさを判断することもできない。
 

 ということを、JRの事故に関する一連の報道を見て思っていました。

JR福知山線脱線事故(Wikipediaより)
2005年4月25日午前9時18分頃にJR西日本福知山線(JR宝塚線)塚口〜尼崎駅間で発生、107名の死者を出した列車脱線転覆事故である。

列車は塚口〜尼崎駅間の曲線で脱線し、先頭の2両が線路脇のマンションに激突した(概要の節で詳述)。また事故を起こした列車は、直前の停車駅である伊丹駅でオーバーランを起こしていたことから、事故後に他の路線や鉄道会社において発生した列車のオーバーランについても大きくクローズアップされる。さらに、JR西日本が事故当日に行った発表の中で、線路上への置き石による脱線の可能性を示唆したことから、愉快犯による線路上への置き石や自転車などの障害物を置くといったことも相次ぐ。それ以外にも、事故に便乗した犯罪が発生した。
 もちろん、事故が起こったということはJRが悪いのでしょう。それは明らかです。だがJRだけが100%悪い、というわけでもないに違いありません。極論すればこうした過密運転に至ったのは消費者である我々自身が汽車の運行は正確であれかしと望んでいたからでしょうし、「教訓を生かさなければ」というわりには今も大都市圏では相変わらず稠密なダイヤの下で列車は運行されています。原因の徹底糾明を、というのであれば諸外国並の「普通」のダイヤにすべきでしょうが、そうはならない。原因の究明も所詮我々の利便との兼ね合いです。それが怪しからん、と言っているのではありません。そもそもがJRの侵した罪は、JRという組織の存在が許されない(つまり、個人でいうと、死刑ということですね)という程ではない、ということでしょう。

 しかし、報道機関にとっては、JR西日本は、悪の組織、あたかも漆黒のような100%の純然たる黒い色に写ったようです。

 事故から日が経つにつれだんだんおかしなことになってゆきました。報道はどんどんおかしな方向に逸脱してゆきました。JR職員のボウリング大会、今までもあっただろうに突然クローズアップされたオーバーラン報道。運転手、職員への嫌がらせ。

 去年あたりの医療「過誤」報道ブームなどと同じ様なプロセスをたどっているように思えるのは気のせいでしょうか。

 確かにボウリング大会、遺族の悲しみや憤りに火に油を注ぐ行為かもしれませんが、たとえボウリング大会をしなかったところでその悲しみがいささかでも減じられるでしょうか。正直にいいまして、じつに理不尽な現象によって肉親を失ったご遺族の方の怒りや悲しみは世界全体に理不尽な形で向けられるものです。そういう状態では隣近所の楽しい家庭団欒、笑い声でさえ怒りの原因になります。もちろんそれは理不尽ではありますが、しかしボウリング大会にいちゃもんをつけるのは理不尽ではないのでしょうか。事故が起こればすべてのJR職員は勤務時間外にも謹慎しなければならないのでしょうか。報道を見ている限りそうとしか思えないのです。※

 もちろん、敢えてこんな時にボウリング大会などしなくても……と私だって思います。そういうJR西日本の脇の甘さは不見識でしょうが、現在我々が享受している自由な社会では、その点に関しては不愉快であるが決して責めてはいけないはずです。それが「市民社会」のルールです。逆に、敢えてそれを報道しなければ遺族の方も悲しまずに済んだと思うのです。決してJRを上回る色の濃さではありませんが、報道側にも幾分かの「罪」は帰せられはしないでしょうか。

 しかし今回はあまりに「JRが100%悪い」報道が目立ちました。見ていて不愉快でありましたし、結局のところ現在のマスコミの報道というのは黒か白かという極端な善悪二元論しかされないということがよくわかりました。悪いとなると100%悪い。いいものは徹底的に持ち上げる。現実世界の微妙な中間色の綾は、彼等には表現できないのでしょう。

 件の運転士など、当初は「運転歴11ヶ月の未熟な運転士」呼ばわりでしたが事故後4-5日経って一輌目で遺体で発見されてからはそうした非難めいた論調は陰をひそめてしまいました。むしろワイドショーでは友達から真面目な人となりが紹介されたりして「JRの非人間的な日勤教育に追い込まれた過密運転の犠牲者」みたいな感じになっていますが、じゃあ彼が100%悪くないかといえば、そりゃやっぱり悪いでしょう。

 でも、彼はもう白いドットにされてしまいました。殆ど真っ黒なJRという組織の中にぽっかりと抜けている白いドット。これでJR西日本の黒色は少し薄まって100%から90数パーセントになるのでしょう。でも、たとえば日勤教育で彼を追い込んだ指導をした鬼教官と彼と、どっちが悪いのか、と比較すれば、そりゃあ故意ではないし悪意もなかったけれども運転士の方がやっぱり悪いだろうと。

 逆に、記者会見でものすごく傲慢な会見をして、叩かれた読売の記者の方、この方は白地に光る黒いドットにされてしまいました。ではこの人の隣にいて「そうだそうだ」みたいに言っている人は真っ白のドットなのか?とてもそうは思えませんよね。しかしこの彼にしてみても悪いとは僕も思うけど、「罪」としてどれくらい悪いかというと、人に直接的な危害を及ぼしているわけでもないから、極めて微妙であるとは言える。

 確かにこうした運転士の扱い、バッシングを受けている記者のためにJR全体の黒い色は少し薄まり、報道側の色は少し黒くなり、全体としては極端な善悪二分論から、現実とのバランスをとろうという力が働いているように思えます。しかし、悲しいかな、モノトーンなんですよね。全体で黒っぽいのであるから、運転士は白いドットならその周りは黒いドットに違いありません。だが、運転士がその他のJR職員と比べて際だって善であるという根拠はありません。いっそのことすべてが薄い灰色であればいいのですが、20%の悪も60%の悪も表現はされません。まるでファックスされた写真のようであります。細かいニュアンスが全部飛んでしまう。

 だからそもそもの元凶は、そういう風に白か黒にしか表現できない報道の貧弱さにあるような気がします。ほりえもんに言われるまでもなく、確かに既存のメディアは死んでいると思う。
 

 なぜそういうことが生じるかというと、日本のマスコミ報道は、隠蔽された情報を暴くという、いわゆる「ジャーナリズム」という本来の役割よりは、いわゆる世間的な価値判断基準を世間に提示することに注力されているからではないかと思います。

 本来、ジャッジメントはみている側に委ねられるべきですが、我々の手元にやってくるのは中立な(ま、つきつめて考えれば真に中立な情報というものはないわけですが)情報に価値判断を付与した、バイアスのかかったものであることが殆どであります。特に日本のマスコミは自分たちがそうした世間のジャッジたれという意識が強すぎ、その結果として、善悪に関する次元にまで踏み込もうとしがちではないかと思われる。結局、「報道すること」と「裁くこと」を同時に行おうとするあまりに、細かいニュアンスが飛んでしまい、黒か白かしか伝えられなくなっているのではないでしょうか。

 マスコミが提示する価値判断基準は、現在では既存の法体系とか、司法判断などを凌駕するまでになっている。すでに第四の権力として確立されているにも関わらず、その自覚がなく、また責任の所在もはっきりせず、チェックしあう機構を持たないのが、日本のマスコミの本質的な弊なのかもしれません。

(May 2005初稿, Jan 2006改稿)