Web日記—日常の浸食性

—Web日記7

—書くということ—3



 すごいなぁ。日常って。
 
 いや、ってのはね、こういうWeb日記みたいなものをずっと書いていて思うのですよ。

 最初、Webに文章を載せ始めた頃って、もう目一杯緊張でした。おそるおそる文章を確かめて、ミスがないかチェックして、推敲して。しゃれた言い回しはないかと考えて。それだけじゃなく、なにかしら気の利いたことを言ってやろうと、余所行きの言葉で飾り立て、格好よく優等生的な発言をしたりもしました。

 なんだか、Webに存在していた私は、よそ行きの服を着て、よそ行きの気持ちでいたわけなんです。

 だけど、今。

 なんなんでしょう。まったくリラックスしています。だーらだら言葉を垂れ流し、ただ更新日記だけを更新して、結局飲み屋でグダグダ主張しているそこいら辺のおっちゃんとまったく同じ。鼻くそだってほじり出しかねないいきおいです。

 この感じ、住んでいる部屋と似た状況なんですよね。プランする時は、デザイナーか?っていうほどの気張りを見せておしゃれげな家具とか置いたり、綺麗な部屋を志向するんだけど、結局のところしばらく暮らせば脱いだ服は散らかっていたりゴミ箱じゃなく直接ポリ袋にゴミを入れてそのゴミ袋は部屋の真ん中にでんと置いてあったり、実際に使ってみると綺麗に部屋を使えない。

 いや、僕が言いたいのはですね、こんなはずじゃなかったなぁと今の自分のページを見て思うわけです。「半熟ドクター」っていうこのサイトも、そんな風にグダグダになってます。散らかったこの状況を見てため息をつきます。

 こんなはずじゃあ、なかったんだがなぁ。

 

 Webって普段の僕から遊離した特別な空間だったわけです。ここに居て、発言する。またここに居て本当は知らない人と知り合い、言葉を交わす。それはまさに「よそいき」に属する事象だったはずなんだけど、気が付くとそういう空間においてさえもくつろいじゃっている自分がいるわけです。つまり日常化しているわけで、どんなところにも浸食してゆく、この「日常感」ってすごいと思いません?

 いや、日常感が決して悪いというわけではありません。たとえば、ちょこっと難しげな文章なんかもすらすらっと書けるようになりましたし、何よりも文章に掛かる時間は圧倒的に短くなりました。リラックスというのはいい面ももちろんあります。書きたいことを書くということに関してはずいぶんと訓練されたように思います。だから日常が悪いと決めつけるつもりはありませんが、やはり、なんだかだらしなくなってしまったような気もしているんです。

 僕のだらしない一例としては、文章のリライトをアップロードしてから行うという、悪い癖があります。とりあえず適当にざっと書いた後、まずweb上に公開してしまう。その後で誤字脱字を直していきます。大抵誤字脱字や、言い回しがかぶっているところがあって、そのたびに赤面するのですけれども。

 それに、速く書けるというのは確かにいいことではあるのですが、逆に自分の文章のスタイルが完全に固まってプラトーに達してしまったということを意味しているのではないでしょうか。吐き出しても自分の中に蓄積は生まれない。よきものを自分の中に取り入れないと。ジャズのアドリブなどでもそうですが、自分の手癖だけでソロを作っていても、高みは目指せない。
 

 日常感を獲得した空間において、「よそ行き」的な緊張感を改めて感じるのは難しいことです。しかしそういう緊張感を持たなくなって久しい現在、このままでは遠からず行き詰まるのではという危機感と閉塞感を感じています。モチベーションが音もなく身体から流れさっていくような気がするのです。

 今のままでは僕はあまりよい文章の書き手ではありません。定期的なアクセスを得ているという点では、僕はWebという空間に最低限居場所を確保したと言ってよいのかもしれません。だけどそうして確保した場所というのは冷静に眺めて見ると実につまらないものに見えるし、その得た場所で意味もなく留まって、自家中毒に陥りかけている。しょうもない位置に落ち着いて、それを日常と感じて恥じない自分という存在に、薄暗い自己嫌悪を深めてゆくのでした。

 本当に、どうしたらいいんでしょうか。

 ページのコンテンツは、気がつくと日記ばかり増えていくという状況で、本当に僕がしたかったことがサイト上で実現できていない。

 ま、それに反する言葉として「継続は力なり」というのもあるんですけれど。
とりあえず日記だけでも続けてりゃあ、と。


(Mar2004初稿 改稿 Dec)