インターネットで日記を公開する意味。

—Web日記1

—書くということ—1



HPを持つ意味:

 自分のHPというものを持ち、随分になる。

 人に読んでもらう日記というのはよくも悪くも他では味わえないむず痒さがある。物事に対し自分が考えていることを知られるのは、自分の周りに起こった事実そのものを知られるのと同じか、それ以上に恥ずかしいかもしれない。

 自分の心を飼育箱に入れ、オオクワガタやカブトムシに並んでショーケースの中に陳列されるのを想像する。

 時々覆いを剥がされて、私の育ちっぷりは白日のもとに晒される。果実の汁をなめていたり、ちょっと弱っていたり、元気よく動いていたり、交尾していたり。

 新手のSMか、もしかしたら露出プレイなんだろうか、これは。


そもそも何故人はプライバシーの漏洩のリスクを冒してまで自分のHPを作るのだろうか。

 Internetでは、「自分の意見を言いたい人」が集まっているので、こういった疑問は疑問として認識されることは少ない。しかし、日本国民すべてを分母にして考えると、わざわざホームページで自分の思っていることを述べたりや自分のプライベートを開陳したがる人間というのは比率としては稀だろう。

 効率ということを考えれば、これほど経済効率的には無意味な行為もあるまい。とりあえずアウトカムはゼロだもの。他人に自分の情報を無意味に漏洩するという意味ではむしろマイナスかもしれないし。

 インターネット日記の「メリット」と「デメリット」ということを考え直してみる必要がある。


日記という行為の個人的な意義

 意義、というとちょっと困るのであるが、自己分析してみると、僕は「日記をつけなければならない」という強迫観念を持っているフシがある。

 小さな頃から、毎年毎年、いつも日記をつけようと思っていた。理由はよくわからないが、日記を書くという行為は極めて自己管理ができている人間にのみ可能であるという思いこみがあったようだ。

 転じて偉い人は日記をつけるものだと勝手に思いこんでいた(そうでなければ偉人伝とかが作られるわけがないのだ)。

 それに「折りたく柴の記」などは言うに及ばず、江戸時代には、一市井人の日記というのが沢山残されている。こうした個人の日記を後世の我々が読んだ時にうける感慨というものが僕の頭のどこかにこびりついているのかも知れない。

 ま、極言すれば、日記を書くきっかけは、子供の頃に感じたスノビズムに過ぎないのだろう。


 だが、うまくいかない。思い立って日記をつけても、書く事がいっぱいある日と全く無い日があし、書く時間がある日もあるしない日もある。

 日記というものの矛盾は、忙しければ忙しいほど、濃密な時間を過ごせば過ごすほど書かなければならない内容は増えるのに、日記を書くための時間はそれに反比例して減ってしまうということだ。

暇人しか、日記は書けない。
暇人には、日記に書くことがない。

 書く事が多い日には私の貧弱な文章力ではその内容に筆力が追いつかず、また書く事の無い日に小さな話題を探すというまめさもセンスも持ち合わせていない。いきおい、日記帳はまだノートの三分の一もきていないのに、ある日突然真っ白になっているような状況になる。三日間が空くとそのあとはずるずる二週間以上間が空く、というのが常だ。

 今までにこのような日記帳(そう呼べた代物ではないのだが)を十冊以上つくってしまった。書きかけで中途に終わった日記帳をみると、泣きそうな焦燥感を抱いてしまう。それは自分の失敗の記録、無能力の証だからだ。

 そんなわけで日記願望が強いわりに日記を続けることに成功できなかった私だ。しかしやはり日記……とまでいわなくてよいから何か後々まで残したい、という欲求はやはりある。

 今の自分の活動を、何かに残しておきたい、という。


 そして、最近気がついたのだが、書いたり記録したものはやっぱり誰かに読んで欲しいものなのだ。「残したい」という欲求はもっと突き詰めて考えると「読んで欲しい」という事なのだと気がついた。

 これが僕がインターネット日記を始めた理由だ。

 それに、クオリティが低いなりにあっさり他人にみてもらう形で文章を書いた方がうまくいく。実際、インターネット日記をはじめてから少し文章が流暢になったし、頭に思ったことを言葉にする抵抗は少し減少したように思う。
自分しか読まない文章というものはやはり自家中毒になってしまう。文章の中での主体・客体を保てないのである。

 これが、今の私がインターネット上で日記を晒す理由だろうか。
 ご静聴ありがとうございました。