読者の視点と著者の視点 

—Web日記2



 Web日記を書き、雑文を書き、Jazz評(評論と呼べるかどうかは疑わしいが)を書き、ものを書く。

 ものを書くというのは想像していたよりも随分と難しい。
当たり前のことだが、これに気がつくのに半年くらいかかってしまった。

 昔から本はわりかし読む方だ。だから目は肥えている。それだけに書き始めるまでは自分には文章力もあるだろうとたかをくくっていた。だが、思うように書けない。

 当たり前だ。文章力は乏しく、他人に伝えるのに必要なことが抜けていたり、構成が冗長だったり。書いた日記を後から見直すと情けなくて死にそうになったことも多々ある。

 うちひしがれて、そういう目で書棚にある本を読む。と、「成る程玄人の文章とはこういうものか」と、感心する次第である。それまでは「大したことない物書きだわい」と思っていて読んでいた作品でも自分の書くものと比べると画然と差がある。

 「物書き」(素人だが)としての視点で文章に触れると、今まで読んだ本でもまた違う発見がある。そういう意味ではものを書き始めてよかったと思う。


 音楽を始めたときもそうだった。楽器を吹くようになってからその演奏のすごさが改めてわかるというものだ。
 

 というわけで、文章を書き始めて、文の見方が変わった。

 今まで知識の源泉として本を読んでいたのを、文体、表現法のネタ元として読むわけである。そうなると、いままで取るに足らない本であったのが急に自分の中で重要になったり、もちろんその逆もある。自分の中で秩序立っていた「いい本」「悪い本」の価値基準に、もう一つ別の尺度が加わったおかげで、自分の中の「本ランキング」に大変動が起こったわけであった。

 こういう風に新しい視点を得ることは、ある種の快感(エウ・レーカ!的な)であるのは間違いないのだが、デメリットもある。本が捨てられないことだ。

 「ネタの資料」は捨てられない。内容を読むだけであれば1、2度読めば事足りる。しかし、言い回しが興味深いというものは必要に応じて見直したいので、捨てられないのだ。これは困った。

 村上春樹の本なんか、特にそうだ。

 現在私の蔵書、文脈として(読者としての視点で)重要な部分では、ページの上側に折り印をつけている。逆に文体の面白い部分、(書き手の立場で興味深い部分)ではページの下側に折り印をつけることにしている。
 

 そして、もう一つの驚きは、Web上にも玄人作家同様に文章のうまい人が結構いるということ、であった。くだけた文章では紙上の人よりもむしろ洗練されているかもしれない。

(初稿2000.1.3日記より 改稿2003.1.5)