なぜ田舎をつまらなく感じるのか

—田舎で暮らすということ   その1

 唐突に始まるが、なぜ、熱帯雨林の伐採は反対されるのだろうか。

 一つには、熱帯雨林の伐採が進むと総木材量が減る。地球の木材の総量の減少は二酸化炭素処理能力の低下につながり、結果としてCO2増量による地球温暖化が発生するから、である。
(『大変だ、ジョージ!ニューヨークが海に埋まってしまうよ!!』

 これが最も大きな理由であり、大多数の答えでもある。しかしこれは熱帯雨林というものを量的にとらえた考え方だ。熱帯雨林という財産が目減りする事により、CO2の量が変化し、結果として「温室効果」という状態になる。すこぶる量的な変化だ。
 だが、それだけではない。

 熱帯雨林の面積減少という「量的低下」はとりもなおさず、そこに存在する種の減少という「質的低下」に直結する。実に熱帯地方には様々な種類の動植物が存在するが、種の数は『連続する熱帯雨林の面積』に比例する。
 動植物の総量が、ではない。種族の種類の数である。
 これが、二つ目の理由だ。

 熱帯雨林の伐採によって種族の絶滅が起こる。一つの種族の絶滅というものは生物界の持っている遺伝子系を一つ失ってしまうということでもある。様々な遺伝子プールが失われてしまうことも、我々にとっては大きな損失なのである。

 そして、困ったことにこういった質的変化は量的変化と違って不可逆的である。
 
 コンビニとスーパーマーケット、もしくは小さい本屋と大きな本屋を考えてみよう。
 コンビニには一通りの商品は揃っているがそのバリエーションはスーパーマーケットに比べ遙かに少ない。実に巧妙に不自由を感じないようにはなっているが、品物の種類が少ないのは絶対的な事実である。そして、「◯○社の××が欲しい」という細かい希望に関してはコンビニエンスストアは絶対に対応出来ない。

 実に大きな熱帯雨林と小さな熱帯雨林との関係はこれらの関係に酷似しているのである。


 以上は、前置である。別に私は熱帯雨林の減少を憂いているわけではない。いや、憂えてはいるが、今そのことを言いたいわけではないのだ。
 今、私は田舎で、全く同じ様なことを実地に体験している。
2001年5月現在僕は島根県の某市に住んでいる。人口3万人足らずの、すり切れた、特徴のない街だ。去年までは神戸の真ん中に住んでいた。
 田舎という「入れ物」は都会にくらべて小さく、したがって、「選択肢」の数も少ない。

 田舎だって、『宇多田ヒカル』のCDも発売日に買える。
 『笑っていいとも』もやっている。秋の新色リップも全色揃うだろう。
 ローソンだってあるし、主だった雑誌だって大抵手に入る。

 でも、ダスコ・ゴイコビッチのCDなんかは絶対置いてない。たれぱんだの絵本はあるが、オールズワースの絵本は置いてない。
 食材だって探すのが大変だ。ルッコラを、モッツァレラチーズを探すのに随分多くの店をめぐったものだ。(そのかわりこちらでとれる魚介類はぶりぶりに新鮮なのだが)
 でも、経済的に島根が貧しいわけではない。金さえあればシャネルを買うのは簡単だ。ベンツだって買える。ロレックスを専門に売っている店もあるし、一泊ウン万円の高級旅館もある。
 でもロータス・エリーゼも、ダニエル・ジャンリシャールの時計も買えないだろうな。

 田舎とは、そういう処なのだ。


 田舎に住む人そのものにも同じ様な事が言える。人間のステレオタイプがすこぶるコンビニエンスストア的であって、百貨店的ではないのである。

 例えば、都会で街ゆく人10人に声をかけて趣味を訊いてみよう。10人中9人は普通の(ショッピングだとか、スノーボードだとか、英会話だとか)ものを挙げるだろうが、まぁ10人いれば一人くらいは「手品」をやったりだとか「フラメンコダンス」をやったりだとか「彫金」をやっていたりだとかこちらが面食らうような趣味をいう人が現れる。
でも、田舎ではそんな比率はもっと低い。

 他人の想像外の趣味というものは評価されにくいし、第一それを知る機会がない(一度都会にでた人間なら別だが)。

余暇だとか趣味だとかいうものに関しては田舎というものは都会に住んでいるものの想像を超えて貧寒としている。
 

 マス・プロダクトにのらない細かなこだわりを追求する者は絶えずアンテナを張って中央とのパイプを繋いでおく必要がある。


ふっ。中央とのパイプだって。
なんだか、ロシア共産党の地方幹部のような言い草だが。
(2000/10/31日記より改変)