田舎という光景


—田舎で暮らすということ   その2

梅雨も明け、すっかり夏だ。

 クーラーのついていない僕の家では窓はいつも開けっ放しだ。
なにしろむし暑く何もやる気が起きない。うしろ髪の生え際に手をやる。じっとりと湿っている。着ているTシャツの胸の辺りをたたいてやるとぽつりぽつりと島状に濡れたところができる。

 目を閉じると遠くの方で、ジーワジーワジーワジーワ、名も知らぬ虫の音はこすりあげている様な摩擦音。大きくなったり小さくなったりゆらめいたりひっくり返ったり。田んぼの方では雨蛙がからからと唸り声を挙げる。くぐもった、しかしその音色はあくまでも軽い。
 この世界の中で、僕に属する音。壁掛け時計の秒針、冷蔵庫のサーモスタットのブーンという音に混じって時折僕が動くときに軋むベッドのスプリングの音くらいだ。
 

 いわゆる「田舎」に暮らすようになって、そろそろ9ヶ月くらいが経とうとしている。生まれてこのかた、これほどの田舎に暮らすのは初めてな私だ。去年までは神戸の街間に住んでいた。

 しかも住んでいるのは病院からあてがわれた古い一軒家だ。なんでも築30年くらいらしい。6畳間が5つばかりある。庭もある。だけど、当時の安普請で、外壁の外装はベニヤ板、屋根はトタン屋根だったりするが。
 家族が住むには手狭かもしれないが、一人で住むには些か大きすぎる。この家で、ほとんどの時間を一人で過ごしている。時折人が訪れたりする事もあるけれど。

ちなみに、家賃は格安だ。一ヶ月の新聞代にもならない。


 住んでみないと実感出来ない事が一つだけ田舎にはあった。

 田舎は「いきもの」の数が多い。ということだ。
 そう、うんざりするほど。

 特に虫。蛍光灯の光の元には小さな虫がわんさか集まり、頼みもしないのにいつの間にかそこで力つきるお陰で蛍光灯の下は小さな虫の死骸で真っ黒だ。夜になると窓ガラスにはそれらがびっしり。小さな蛾などもびっしり。庭に足を踏み入れると水が跳ねるように小さな虫が四方に飛び跳ねるのが見える。縁側の網戸にはスズメバチが巣を作った。家の中には何故か雨蛙たちが不法侵入している。それを祝うかのように庭の前にある田んぼでは奴らの大合唱。
トイレの小窓の片隅にはクモが巣を張り戦利品の小さな虫の死骸ずらりと並べているのはまるで飲み終えたバドワイザーの缶を並べたキッチンドランカーのよう。

 一月も経つと小さな虫を殺すのになんの痛痒も感じなくなった自分に気づく。
 可哀想という感情は浮かんでこない。やらなければこっちがやられる、といった心情は、むしろ必死だ。
 
 都会(神戸の町中を都会というならば、だが)では生き物は蠅にしろ蚊にしろゴキブリにしろ「人間との関わり」のある数種類の生き物しかいない。
 だが、田舎は「人間との関わりにはそれほど興味がない生き物」が沢山いて、それらは皆彼等なりの生き方を営んでいる。
 

 そういう生き物達の謝肉祭をみせられるのにはほとほと食傷気味ではあるが、そういううんざりにこそ生命の本質があるのかな、とやや思考停止しかかった脳味噌でぼんやり思ったりする私だ。

 田舎で暮らすのに必要なのは理屈ではない。
 少なくとも理屈、だけ、ではない。

 田舎に暮らすのはただひたすらに美味い米の飯を味無しで延々食べ続ける行為に似ている。

 うまいが、飽きる。幾らうまいものでも二杯も食えば他のものが食べたくなってくる。

 そう考えると、都会人が時々ヴァカンスに田舎に訪れるのはうまいやり方だと思う。

(2001/7/11)