田舎からみる世の中

—田舎で暮らすということ   その5


 その4では「農魂都才」ということを書いた。

 田舎ではポストモダニズムはおろか、明治維新、文明開化の洗礼すらくぐり抜けることなく時が流れたため、それゆえに昔ながらの江戸時代的な考え方が残っている、と。

 では、なぜ田舎にはそういった都市で起こった変化が起こらなかったのだろうか。

   簡単な話で、世の中で起こっているいわゆる「ニュース」といわれる様なものの殆どは、首都圏で起きているからだ。
 

 田舎に住んでいると、世の中の動きがわからなくなる。

 僕にはわからないが どうやら 世の中はまだちゃんと動いているらしい.
 世の中を動かす歯車は ときどき軋んだ音をたてる.
 なにしろ 複雑な 器械だから.

 そう 村上春樹が ねじまき鳥と呼んだあれだ.

 器械は いつもは ブゥゥンと低くうなり声を出しているだけだが.
 ときどき 思い出したようにスイッチが入り 器械のハブやクランクは大きく動く.
 すると 政局が動いたり 人が死んだり 会社をつぶしたりするんだ.
 が 僕の 住んでるところは.
 世の中の「動力部分」からは
 あまりにも 離れすぎていて

 その音は 僕にはきこえやしないのだ.

 
…まったく、田舎は、あまりにも静かすぎる。

 もちろん、以前街に住んでいた頃も、例えば政治の大きな変化や景気が良し悪しは、僕らの生活にはそれほど直接的には関わりがなかった。しかし、そういう(直接の関連はない)ニュースだって、同時代感を感じることはできたし、時代の胎動は確かに感じ取る事はできていたように思う。

 いま僕は田舎に住んでいるのだが、そういった感覚が全く欠除している。テレビのニュースはまったくの「他人事」そして「蚊帳の外」。

 実は、僕がみているテレビは実はちょうど一年前に放送されたものの録画で、新聞も一年前のものだったとしても、今の生活なら一ヶ月ほどは気がつかないかもしれない。

 やはり都市と田舎とは生活圏自体が違うと思う。都会といって僕が想像するのは車や電車を乗り継いで半日以上かけて辿り着く所。陸続きだが、意識的な断絶がある。
 生活圏が違うということは「文化」が違うということだ。今いるところは「瓦屋根」と「たんぼ」ばっかりだ。そういう文化にとって東京のビル群というのは相当意識が隔絶していると思う。少なくとも同じ文化という認識はできない。
 そこで思考は停止する。

 この断絶は、同じ国内というレベルを超えて東京だろうが、NYであろうが変わらないと思う。そこで何が行われようとも主体意識を持つことは不可能だ。

 

 マスメディアはすべからく都市発信型だ。だから論調として「田舎の人の政治意識の低さ」と「保守的な既得権益層による政治の硬直化」というものが存在する。「田舎の人は政治のレベルが低い。だから日本の政治は変わらないんだ」と。

 でもそれも仕方がないかぁ、とも思ってしまうのだ。
 だって、別の国の話なんだもの。
 きみが東京に住んでいて「ニューヨーク市の市長選についてどう思う?」と訊かれて、答えられないだろう?

 そして、答えられなくても自分が「レベルが低い」とは思わないだろう?

 ここにくるまでは、僕はそういう田舎の「レベルの低い」政治意識とかそういうものに対し軽蔑の念を抱いていた。ただ、今自分が田舎にいてニュースをみている時に受ける「皮膚感覚」からすると、そういう軽蔑はむしろ的はずれで、無理もないかぁ、と最近は思うようになった。

 田舎の人間が政治に望むのは素朴なまでの地元利益誘導であったりするわけだが、「国家の大計」を述べるような「高潔な政治家」の目は田舎には向いていない。自分に向いていない人間を支持できないのは人として当然なのかもしれないとも思うのである。

(2002 初稿)