ゲド戦記

ゲド戦記 アーシュラ・K・ル=グウィン作
無数の島々からなる国アースシー。魔法使いゲドの冒険の数々を深い思想と優れた構想力でえがくファンタジーである。

 初めてゲド戦記を読んだのは小学5年の時だったように思う。何気なしに親が買い与えてくれた本の一つだった。

 だが、この本は買った親の予想を超えて僕の心に深く根を降ろした。

 月並みではあるが血沸き肉踊る冒険。荒唐無稽な中の圧倒的なリアリティー。

 多分に寓話的な要素を含みつつ、説教臭くはないクールな人生観。ハッピーエンドの中にそこはかとなく漂う喪失感。

 3巻構成ではあるが、続き物にありがちなマンネリズムはなく、3巻それぞれ全く別のテーマを扱っている。その世界観には一貫性があるのだが、巻毎の意味は非対称的なのであった。

 無酸素運動、有酸素運動という言葉があるが、「無酸素読書」としかいいようのない状態がある。もちろん、運動より長時間なので決して「無酸素」ではないのだが、息抜きなしに本が終わるまでほかのことが出来ないくらい本に没入してしまうことで、読書好きなら一度や二度はこのような経験をお持ちのことと思う。

 ファンタジー系の本でこのような『無酸素読書』状態に陥ったのは、ミヒャエル・エンデ『果てしない物語』と『ゲド戦記』の二つだけである。
 だから長らく僕の「好きな本勝ち抜き選手権:ファンタジー部門」にて勝ち残っている数少ない本の一つである。

 あまりメジャーではないが、手放しでお薦めしておく。

ゲド戦記:第4巻 〜帰還〜



 随分経って、続編のゲド戦記4巻〜帰還〜が発売された。確か僕が大学生のころではなかったかと思う。
しかし発刊当初は本屋に並んでいるのを一瞥したものの買うには至らなかった。

 なぜなら、僕にはそのころ読みたい本が他に山ほどあったし、「学生」という経済力も本棚のスペースも限られた存在にとっては分厚い岩波の本はいかにも荷が勝っていたからである。

 それに、ゲド戦記は3巻の時点で十分すぎるほど完成していた。せっかくの完成された終幕に付け足して台無しにする愚を犯しているのではないかと僕には思えたのだ。 例えばアイザック・アシモフのファウンデーションシリーズ、マイケルムアコックのストームブリンガーシリーズなどと同じように。

 そもそもが、ゲド戦記シリーズは非対称的な物語構成をとっている故に続編は書きにくい。寅さんのような「偉大なる金太郎飴」形式であればいくらでも続編を作ることは可能であろうが。

 だから、読むのが怖かった。
 

 医者になって確か二年目である。広島に旅行に行った折、見つけて買った。ゲド戦記を読むこと自体2年ぶりくらいであった。

 何とも胸に残る読後感をもつ作品である。快・不快は別にして。

 例えば、ゲド戦記1・2巻とくらべると、3巻は読後感は前者に比べて「しょっぱい」。しかし、第四巻はそれにもまして「しょっぱ」かった。
 少なくとも「いい話」ではない。物語りとしてのカタルシスもない。「そして、王子様とお姫様はいつまでもいつまでも幸せに暮らしたのでした」というのがファンタジーだと思ったら大間違いだぞ。

 ファンタジーというものはある種空想の塊なのだが、大体その空想は子供向けのハッピーな方向にむかうことが多い。すなわち我々にとって「あらまほしき世界」。

 ゲド戦記の第一巻には確かにそのような視点がある。ヒロイックファンタジーとして楽しめる。なにしろゲドは若いながらも並外れた魔法能力を持つ世界でも有数のイケイケの魔法使いなのだ。

 だが、2巻、3巻と進むにつれゲドに感情移入しても素直に楽しめない。ゲドの業績はすごいものの、ゲドは加齢とともに非常に哲学的な男に変容しているし、自分の終局点を見ながら行動するようになる。そのクライマックスが第3巻のラストである。

 そして4巻。魔法の力を失ってしまった世界で一番偉大な魔法使い。その老いの物語。
 

 第4巻では第2巻の主人公のテナーとゲドが主役になり物語が進んでゆくのだが、二人の間に立ちふさがるのは、尊大な若い魔法使いである。

 僕の心にズシンズシンとキテしまったのは実はこの若い魔法使いなのだ。この老いた二人に対する 侮蔑感に似た心を僕自身も持ってはいまいか。老人保健施設にいるおじいさん、おばあさんは皆それなりの歴史を歩んできているはずである。しかしその痴呆などがあって、「成れの果て」と化している人たちに対して侮蔑の心はないだろうか、と。

 そう自問自答せざるを得ない。