場依存型の人間関係の私2


—人付き合いのこと


 土曜日が、ぽっかりあいてしまった。

 普段の私の週末はバイトをしていたり、さもなくば実験をしていたりであるが、微妙に空いた時間が発生してしまった。よく晴れた土曜日に、研究室に籠もって論文を読んだりするのは不健康だ。遊ぶことにしよう。

 しかし、その日彼女は所用があるらしく一緒に遊ぶことが出来ない。前もって予定がわかっていれば空けてくれるだろうが、こういう風に突然暇になったと言われてもむこうだって約束というものがある。
 さて、どうしようと考えると、今自分の周りには友達と呼べる人間がまったくいないということに気が付いた。
 うーん、気がつかなきゃあよかったなあ。
 

 自分では職場の人間関係はずいぶんうまくやっている方だと思っている。その職場という場において人間関係を友好的に保つことだけを考えているせいか、逆にプライベートでは同僚と関わることを避けている。休日まで職場の人と一緒に行動しなくても…、と自分では思ってしまう。自分の方から一線を引いているのだ。

 酒をあまり飲めないということもあって、自分で飲み会を開くのはあまり好きではないし、医局の皆がかなり忙しいこともあり(人手が足りないからね)、そもそも飲み会自体がずいぶん少ない。乗っかる尻馬も最近はずいぶん減ってしまったと思う。

 気がつくと、余暇の選択肢がずいぶん減ってしまった。


 となると、このように突然発生したぽっかりと空いた空隙で、僕は、途方にくれる。
 

 そもそも僕は場依存型の人間関係が得意だ。

 一対一の人間関係と、多人数における人間関係は違う。我々は無意識のうちにそれらを使い分けているはずである。

 なぜなら、二人の間には一つの関係しかないが、三人であれば三つの関係が生まれる。AとB、BとC、CとA。三角形の三辺。
 四人であれば四角形の辺と対角線。6通りの関係。

 n人の構成員を持つ集団では、その中の人間関係はnC2=n(n-1)/2 通りある。つまりnが増えると二乗に比例して関係性は増加するのである。これを一対一の人間関係と同じ密度で対処していては脳がパンクしてしまうだろう。

 ではどうするのか。
 

 三体問題というのをご存じだろうか。

 ニュートンの万有引力の法則は物体同士に働く重力について記述された式である。この法則自体は極めて簡単な公式で決定されうるのであるが、では、この簡単な公式を用いて物体同士が相互に影響を及ぼしながら運動する軌道を算出できるかというと、できない。物体が三個に増えただけで、軌道の算出は近似的にしか計算できなくなってしまうのである。

 物理的法則ですら、一対一の関係を多数に敷衍するのは非常に難しい。まして人間関係という訳のわからないものに関してはなおさらではないか。

 しかし、実際にたとえば人工衛星の軌道計算などを行う時に解が算出出来ないと話にならないから、実践的には、重力場という概念を用いて対処している。最も影響が大きい質量(太陽系であれば太陽)を静止座標に置き、自分以外の物体が及ぼす影響を総和した「重力場」を設定してやれば自分自身の位置と運動速度、推力によって軌道を近似計算出来る。当然100%の精度はもちろん望めないが、一対一の計算ではオーバーフローしてしまう計算をぐっと簡易に求めることが出来るのだ。

 これと同様に多人数間の人間関係においても、我々はそれぞれの関係性にはあまり注力せず、その場におけるある種の人間関係の力場のような形で漠然と把握しているのではないか。これこそが『社会性』と俗に言われているものの正体なのではないかと僕は思っている。

 たとえば一人っ子よりも兄弟のいる子の方が社会性があるというではないですか。

 一人っ子で親二人の三人家族であれば、関係の数は3C2=3通りしかないのに対し、たとえば五人家族では5C2=10通りの関係がある。前者では3通りの人間関係ならなんとか1対1の関係の延長としてハンドリングできるかもしれないが、後者では10種類の人間関係が必要とされる。家族の中の関係といえど、これを1対1の関係の延長として把握するのは難しいので、質的な飛躍、ある種の近似公式の構築、すなわち場依存的な関係認識を必要が発生するのではないかと思う。幼少時からのそのような発生の有無が『社会性』の有無につながるのかもしれない。

 
 しかし個々人の人間関係把握力の総話など、そんなに違いはないというのもおそらく事実だ。あるところが発達するとある部分が未発達に終わるし、逆も然りだろう。

 重力場を先ほど例に挙げたが、あれの欠点は所詮近似に過ぎないということだ。自分の動きによって周りの環境には当然外力が与えられ、設定された重力場は微妙に変化する。もちろん、人工衛星の軌道計算などを行う時は、自分の質量はその周りの惑星・衛星に比べ無視できるほど小さいのでこうした変化はほぼゼロと近似して差し支えない。だが、人間関係においては自分が周りに与える影響を無視できるわけがないのだ。

 あくまで「場」によって得られる関係性は近似に過ぎず、それぞれ個々の関係を自分の行動・態度により修正(フィードバック)をする必要がある。場依存型の人間関係認識というのは、そういう修正を経ないと粗雑すぎて使い物にならないものかもしれない。

 では、一つ一つの人間関係をより濃密に、精細に見ることに長けた一人っ子の方が強みを発揮する場も当然あるだろう。

 端的にいうと恋愛関係などが一対一の人間関係の代表である。『長女は恋愛ベタ』とかいうが、これはやはり早期から場依存型人間関係の発達に迫られた結果、一対一の人間関係がやや苦手になっているのを反映しているのではないかと思われる。いわゆる「サークルクラッシャー」の様に、周囲の空気を読まずに恋愛に突っ走る人がいるけど、こういう人は(一対一関係)>(場依存型関係)の思考の持ち主なのかもしれない。
 

 僕は場依存型の人間関係においては強みを発揮するが、一対一人間関係に関してはそれほど得意ではない。苦手、と言ってもいいかもしれない。

 すべからく場依存なので、昔の友達とかも、自分が「場」をうつった途端、希薄な関係になってしまう。今までの友人でも、未だに友人と言えるのは5人くらいだろうか。

 もしかしたら場依存型の人間関係すら苦手なのかも知れない。仕事だからうまくやっているが、たとえばオフの時は極力独りになりたい、ということは無理して場依存的な人間関係を営んでいるのだろう。無理をして、ということはそれは得意とは言えまい。

 結局家の掃除をし、音楽を聴き、楽器を吹き、PCの手入れをし、本を読んで時間はつぶれたし、まだ足りないくらいだが、岡山では職場以外の人間関係は、ほぼゼロ、であるという事実は僕の心を暗鬱にさせる。自業自得なんだけどさ。

 ああ、ウェブ上の人間関係?
 これだって場依存の象徴かもしれない。HPとかはまぁそれなりに続いているけど、一対一のメールとかは得意じゃないし、長続きもしない。それって、やっぱり、(場依存型)>(一対一) というわけなのだろう。
 

 と、いかにももっともらしい事を書いたが、当然これは擬似科学だ。竹内半熟美子とでもいっておきましょうか。

 かといって全くの嘘ではないと思いたい。これは一応自分で考えたことだが、おそらく誰かが似たような事を言っているに違いないと思う。学問的にはこう言うのをどう言うのか、知りたい。

(Jun 2004 初稿 Jul 2005改稿)