友人付き合いについて(雑感):


その1:
 友人とのつきあいは不思議なものだ。
 人それぞれに気が合う部分、合わない部分というのがある。

 特に親しい友人、特に嫌いなやつという人は勿論いる。しかしそのほかの知り合い大部分というのは、気が合うところがいくつか、気が合わないところがいくつかあって、そのプラスマイナスあわせるとプラマイゼロ(もしくは少しプラス)に落ち着くものだ。

 しょっちゅう顔をつきあわせていたときはそのプラスの点、マイナスの点それぞれをしっかり憶えている。だが、久しぶりに会ったらそういう細かい点は結構忘れているものだ。憶えているのはプラスとマイナスの和、つまり収支がちょうどトータルゼロとかプラスとかマイナスという点のみだ。

 だから例えば、ちょっと「きらい」な者と再会してもさほどむかつきはしない。プラスが15、マイナス20でトータルマイナス−5の人間に対して、僕の中で-20だった部分は忘れている。
だから−5の気持ちで付き合える。比較的「いい顔」で話が出来る。

プラスが50点マイナスが45点の人間と、プラスが10点マイナス5点の人間も、久しぶりに合えばどちらも「プラス5点」の人間になってしまう。

 少なくとも、僕はそういう風にとらえている。


その2:
 例えば、クラスの同窓会だとか、医局の同門会だとか、大勢の人に一度に会う会合というのはあまり好きではない。特に立食パーティー。
 

 うわべをなでているかのような付き合いは、なんだか疲れる。それに色々な人とちょっとずつ話をしていてふと話をする相手が途切れる場面がある。そういうところでなんだか情けなくなるのだ。だから、やはり一抹の寂しさがある。

 それに妙なサービス精神を発揮して自分の現在についておもしろおかしくいっぱいしゃべったりしてしまうので、大抵すごく疲れてしまう。

散会し、一人になって電車に乗った途端にため息がでる、というのが常である。

 そうして、ひとりになったときの寂寥感はまた格別である。

いっぱいしゃべったあとは、いつもおちこむんですよね。
(竹中直人:ナンシー関『なにさまのつもり』あとがき対談で)
 
喧噪の中は独りで居るよりも孤独を感じる。

 ちょっと油断すると大勢がわやわやになっているところで独りだけ醒めてしまう。そしてそれに気がつく自分がいる。

 よく周りを見ていて、気を使ってくれる人はどこにでもいるものだ。そういう手合いが、「先生、飲んでないね?」と気にかけたりしてくれる。それは、親切半分、暗に喧噪に参加することを求めるのが半分で、基本的には好意的な行為なのだが、それすらも厭わしく感じてしまい、僕はそれに対して曖昧な笑いを浮かべて誤魔化してしまう。

 醒めているのは酒なのか、雰囲気なのか、両方なのか。

 近頃、酒のあるなしに関わらず、めっきりと多人数で喋っているときの会話を楽しめなくなった。道化ることや、空疎な、がらくたのような会話をするのが疲れて仕様がない。

価値観の異なる人と幾ら話をしても上滑りするだけだ。

 ああ、対話(ダイアローグ)がしたい。まっとうな人とまっとうな話がしたい。

その3:

 世間には遠くに離れてしまったり、学校・職場が離れてもまめに連絡をとりあって友人関係が長続きする人がいる。
 だが、僕にはそういうことが出来ない。

 遠くの友人は遠くの友人にすぎない。
 友達がいないわけではないし、僕は人と話をしてかなり深いレベルの共感を共有する事が出来るタイプだと自分では思っている。だが、遠隔地へ行くと疎遠になる。

 基本的には僕は独りでいたりするのが好きだし、努力しないとうまく人間関係を維持できないタイプに思う。

 今の人間関係を作ることに汲々として以前の関係まで手が回らないのかもしれない。

 今現在、もう僕の近くにはそういう素晴らしい友人はいない。

 僕の周りに今いる新しい友人達、(職場・音楽仲間など)も素晴らしい人たちなのだが、古い友人に会うとやはり寂しさを禁じ得ない。

「僕」という人間は星だ。その星の運行において、
以前は僕の近くに在って、お互いに引力によって引かれ会い、
影響を及ぼしたりしていた星達はもはや彼方に過ぎ去ってしまった。
もはや僕の周りを回っていない星々。
近日点はもう過ぎてしまったのだ。