NAEF社の積み木


—人生について


 少し前、NAEF社の積み木を買ったのである。

 NAEF社というのはデンマークにある玩具メーカーで、デザインと色彩に優れた積み木で有名だ。ただ、このメーカーの積み木は高いのでおいそれとはかえない。一個二万とかする。

 尤も、純然たるインテリアとして考えると、そう高いわけではないと今では思う。「積み木」と思うから高いのだ。内実、積み木以上の何かであることは確かなのだから。

 その存在を知った大学生の頃から欲しかったのだが、学生にとっては「欲しい」ということと「手に入れる」ことは多くの場合パラレルではない。当座の役に立たないこんなものを買える生活ではなかった。社会人になり可処分所得が多くなって、なおかつ独身貴族の貴族性に溢れる人生の一時期にしか買えない。

 それでも買う時、どきどきした。
 正直に言って、今の僕には、もはや買えないだろう。

 買ったのは「アークレインボウ」という虹を模したシリーズである。色の違う半円形が9個。

 これのどこが積み木?と思われるかも知れない。そう、これはいわゆる積み木のイメージとは異なるものである。


 いろいろな積み方が出来る。厚み、寸法などの比率は実に慎重に吟味されているようで、配置した時、合うべきところが合うように出来ているのだ。そのぴったり感が気持ちよい。

 そのために、デザイン的に整合性のあるいろいろ美しく整った積み方が出来るのだ。

 メーカーのwebサイトには美しい積み方の例が沢山載っている。例えば、この様に一見不安定な積み方さえ可能だ。いい加減に設計していたらとてもこうはいかない。こうしたバリエーションは、積み木というよりは多様性のあるインテリアオブジェといった趣になる。

 難点があるとすれば、現実の虹の色の配置とは全然違うことだ。おそらく配色における綺麗さを考えてこうなったのだろうとは思うが。



 ところで、上に挙げたような見本通りに積み上げるのもよいのだが、でたらめに積んでゆくのも、それなりに楽しい。

 9つの積み木を適当に選んで、土台を作り、バランスを崩さないように載せて行く。弧状のピースは、普通の角形の積み木と比べると安定性に欠けるところがあり、なかなか難しいが、逆にぴったり決まるポイントが少ないので、あまり迷わなくて済む。ここで感心するのは、表面の絶妙なざらざら具合だ。木ならではの地肌が、滑り落ちるのを防いでくれる。プラスチックであると、こうはいかないだろう。

 こうやって偶然に積み上げられた形は意外なデザインになったり思わぬ色の組み合わせだったり、かなり意外性がある。ちょっと壊してちょっと治して、繰り返すといつの間にか結構時間が過ぎている。





 こういった偶然性、作為的に偶然=自然を演出するというのは、生け花や日本庭園にも通じるような気がする。エントロピーの多い芸術。これはつきつめると千利休の言う「わびさび」に至るのかなあと思ったりもする。おそらく西洋にて喜ばれる整合的な美とは少し異なっているのではないだろうか。

 夜も更けるころ、無心にこういう積み木を組んだり崩したりしていると、こういうバラバラな並べ方は、我々の人生のありように近いのかなあと考えたりする。

 中には、まるで一直線に目標に邁進しているような生き方、理想をそのままなぞろうとするような人生もあるが、多くの凡百の人生は、その場その場で、手ひどい失敗ではないであろうと思われる選択を繰り返した、挙げ句に、得られるものだ。

 積み木を積んでいると、うまい場所に置いたと思われた積み木が、さらに積み上げようとする別の積み木を邪魔したりすることもあるし、あまり綺麗ではないなと思った積み木が、その次に積む積み木のちょうどいい土台となって、結果的にはすごくうまくいくことだってある。

 ある意志の元に置いた積み木が、最終的にいい選択なのか悪い選択なのかは、終わってみないとわからない。いや、最終的にできあがった形は、どの積み木もお互い複雑に積み重なって渾然一体としているから、それぞれのピースが、悪いのかいいのかも、大抵の場合判定できないのだ。

 全貌は、始める前には予想も付かない、必然性も整合性もないような代物であったりする。

 だが、それこそが人生なのだ。NAEF社の積み木を通じてそうした人生を俯瞰したような気になり、僕は大きく溜息をつくのである。