外套の話


 今僕が着ているコートは、学生時代から着ているハーフクォーターの茶色のコートだ。なんの変哲もない、ウールのコート。

 もう、縁の辺りは少し擦り切れて白くなっているし、毛もかなり薄くなっちゃっている。二度ほどボタンも取れたので自分で付けたわけだが、うまく仕付けてないので(針仕事はあんまり詳しくないので、見よう見まねで適当に付けた)どうもぶらぶらして据わりが悪い。ポケットにもいろいろなものをいれるので、へにゃけてしまっている。

 ずいぶん古びている上に、学生の頃に買ったものなので元々がそう上等な代物ではないのだけれど、これが僕にとっての「いつものコート」なのである。身に纏えば、ふわりと落ち着くのだ。

 もう四冬目になる。
 

 この前、忘年会の時に染みをつけられてしまったので、クリーニングに出したが、一週間ほど、普段使っていないコートを着ることになった。

 いつもと違うものをはおっていると、どうも肩の辺りの据わりが違うようで、落ち着かないものだ。別に上等下等は関係ない。今着ているコートの先代の古いコート(これは、安物だ)でもどうも落ち着かないし(もっともこれは、その頃に比べ僕が微妙に太ってしまっていたというのもある)、最近買ったスーツ用のよそいきコートでも、やはりいつもと違う違和感があったのだ。そのせいかもしれない、風邪をひいてしまったのは。

 考えてみれば不思議なことだ。外套は外皮から一番離れた身体の外側に羽織るものなのに、着心地に関しては外皮に関するくらいもっとも繊細さを要求するというのは。

 それは、外套というものが、一冬通して着続けるものだからなのかもしれない。

 お洒落な女の人なら何種類もコートをもっていてTPOに応じて着回したりすることは当然であろうが、僕はあまり多くの服を持っていない。僕はトラディショナルなもの(英国風が多いだろうか)をずっと着る方を好む。個性的な服を着ることにより個性を発揮するのではなく、自分のスタイルの服を着続けることにより、自分のイメージ、ひいては個性を作りたい。そう、僕は服に関しては割と古風な人間なのである。だから、僕は同じ服を着つづける。
 
 ゴーゴリというロシアの小説家の作品に、そのものずばり「外套」というものがある。昔は外套というのは本当に一財産だったのだということがこの小説からはわかる。今の日本に住んでいる我々からみると、もうまるで別の星の話のようでもある。
 帝政ロシアの時代の話である。主人公は貧乏下級官僚。
 官職名は「九等官」。万年九等官。
これはどうやら「万年ヒラ社員」と同じようなものらしい。「ロボット三等兵」ですら下っ端感が漂うのに、九等。それだけですさまじく下っ端ぶりがうかがえるというものである。

 話であるが、主人公の彼が、ずいぶん昔に買って永らく着続けていた一張羅の外套が、なくなってしまうところから始まる。
 この主人公はもう何十年も同じ外套を着て役場へ通っているわけなのだが、生地が完全に擦り切れてしまうまで(その間何度もツギを当てたりするのである、もちろん)着ている。そして、耐用年数が完全に過ぎてしまう。生地の中綿が完全に抜けきってしまい、物理的に外套が「消滅」してしまうのであるから、なんともすさまじい。

 当然、彼は途方に暮れる。貧乏官僚である彼にとっては、新しい外套を新調するのは予定外の出費であり、かなりの負担であるのだ。

 本によれば、彼の俸給は年に四〇〇ルーブルそこそこであるが、少なくとも新しい外套は一〇〇ルーブル。つまり貧乏サラリーマンが車を買い換えなければならないのと同じくらいの負担であるようだ。

 作るのにしたって仕立屋で作るわけだが、まず生地を仕立屋と一緒に買いに行かなければならないらしいのである。つまり仕立屋はあくまで仕立てるのが仕事で、(当然アドバイスはあろうが)布地のグレードなども当人が決めるわけである.服が仕上がるまでには何ヶ月もかかり、それはそれは大変なことなのである。もちろんオーダーであるから、服の裏地にはどんな生地を使うか、毛皮をつけるかどうか、襟元のデザイン、袖口、それぞれにつける毛皮なども仕立屋と相談して、決める。オーダーというと楽しい作業のようにも思えるが、限られた予算内でということになると、こういうオプションがいちいちつくのは冷や汗ものであるようだ。

この主人公はこうやって外套を新調するわけである。彼がどうなったかは本編を読んで頂きたいが、小説の前半部は、延々とこうした外套に対する描写が続き、彼が外套を新調する際に払った労苦がいかばかりのものかが子細に語られている。(もちろん、それこそが後半の前ふりになっているわけで、ダチョウ倶楽部の上島竜平が『押すなよ!』『押すなよ!』と言っているのは、内実『押せよ!』と言っているのに似ている。)

 特に極寒の地、ロシアでは外套は生死を分けると言っても言い過ぎではない。昔の『外套』それほどの重みがあったのだ。

 今では、たとえコートだって、大量生産されて、マスプロダクトの一つである。棚には規格品が大量に並ぶし、売れ残ったコートはとんでもない値段で投げ売りされる。品質自体は当然、他のテクノロジーと同ように向上したが、コートには昔の『外套』に見られる重みがない。

 だから、僕はそういう時代の残滓を引きずっている『外套』という言葉が好きである。外套につきまとう含蓄は、「コート」の軽やかさとは対照的に僕たちは寒さから守ってくれるような気がする。
 カタカナでは『コート』だが外套、というと、なんだかずっしりと重たくて、雪などが沁みてしっとりとしたような気さえするではありませんか。


 今日も僕は肩に馴染んだ『外套』を掛け、外に出る。

(2004.Feb初稿 Nov.改稿)