悼む

 
この文は2001年の9月11日のアメリカ大規模テロの翌年の同日の日記から転載したものです。

 今日はアメリカを中心に各国で様々な追悼番組が報道されています。日本でも朝のニュースで9.11一周年記事があり、追悼をする人々の姿が報道されていました。

 20世紀という時代を一言でくくれば、東西冷戦。言い換えれば共産主義という壮大な実験の開始と終焉といっていいでしょうが、21世紀の始まりの年に起こったあの9.11事件は間違いなく21世紀という時代の流れを象徴づける事件の一つとなることでしょう。

 アメリカ国民、正確に言えばアメリカ白人がこれほどの大規模で命を奪われるというのはいまだかつてなかったことです。ですからアメリカの受けたショックは相当なものでしょうし、現在のアメリカの政策が泥沼化して理念が見えなくなっているのは「復讐」という感情的なレベルの事柄が根底にあるからなのかもしれません。

 と、政治的な事はともかく。

 で、悼むという言葉なんですけど。

 テレビを見ていてふとおもったのですが、

 いたむ、悼む、痛む、痛ましい、これらって同じ意味なんでしょうか。


 

 日本語というのは古代から今に至るまで首尾一貫して主語が曖昧です。今の日本語は元日本語に中国語(感じとか)の影響を強く受けて完成されたものでしょうが、中国語というのはSVC構文が非常にはっきりしており、寧ろ英語に近いというぐらいだから主体・客体はとてもはっきりしていますよね。

 と、いうことはもともと我々が持っている元日本語というものがそもそも主語が曖昧であったと考えるべきでしょうね。

 主語が曖昧ということは、言い換えるとそれは主体の認識が曖昧であったせいではないかと私は思うのです。認識していないものは、やはり言葉として発達しませんから。

 たとえば、
 狩りに行った。手傷を負った右腕 いたむ。

 狩りへ行った。手傷を負って亡くなった叔父 いたむ。

 上の例では、「右腕」「叔父」は現代語では自分に属するもの、属さないものという区別があるわけです。しかし、中国語で「我」「君」という言葉が輸入される前はもっとこの区別がおおざっぱだったのかもしれません。ぼんやりと自分に属するものと認識されていた可能性があり、そうなれば上の文章は完全に等価となります。

 いたむ という言葉に共通するのは「自分に所属する存在が喪失したときに起こる感情」ということです。
 やがて時代は下り、口語に中国の漢字を当てはめる時代が来たときに初めて中国語での意味の違いを理解し違う漢字を当てはめた。という仮説はどうでしょうか。

 多分大きく外れてはいないとは思うんですけどね。

 ということを考えながらテレビを見ていました。

(初稿2002.9.11 12月改稿)