道中道連れの話

 学会に行く道中の話。

 一本待ってのぞみに乗った方が速いのに、各駅停車のひかりに乗ってしまった。

 僕は待った方がいいとわかっている時でも、ついつい先に来たやつに乗ってしまう悪い癖があります。同様の理由で、回転寿司などでも何周も回ったかぴかぴのやつを、そうとわかりながら取ってしまう傾向がある。
 
 外から見ると空いているように見えた新幹線ですが、いざ入ってみると案外混んでいるものです。完全に空いた列はなく、かろうじて三人がけの通路側だけが空いていました。
 「すいません、そちら、座ってもよろしいですか?」
 隣には物腰の柔らかなおばあさんが座っておりました。
 「まぁ、結構ですよ。」

 一礼して腰掛けました。やれやれ一安心です。

 にっこり微笑んで「どちらまで行かれるの?」

 「はぁ、新神戸までです」

 「私はねぇ、岐阜羽島まで行くの」

 ま、こうした世間話になるのは、当然の成り行きというもので。

 ……しかしここからおばさまの、喋ること喋ること!

 曰く、農家だからそんなにお金はないので、そんなお金のかかるところには行かせられなんだけど、皆よく頑張ってくれた…孫娘は薬学を出て病院でばりばり働いているの……おばあちゃん、30まで私は結婚しないなんて言うんだけどあたしは心配だわ、最近はみんなそうなのかしら?……うちは塾なんかもいかせられんかったけど、そろばんにはいかせよったのよ。ほらそろばんは一番安いからね……でお兄さんがある時市のそろばん大会で二位じゃったの!そしたら下の子がそれならと頑張って、優勝しましたのよ。下の子は昔から負けん気が強くてね、孫もそういう向こうっ気が強くてねぇ…上の子は英文をでて、それが縁で結婚しましたのよ…ええ、同じ学科の子と。だから結婚式には教えてくださった外人の方も出席して頂いてねぇ……そんな、ペラペラだなんてとんでもないけど、近所の子を集めて教えたりも今もしているみたいですよ……今思うと先生にさせたらよかったと思うわ、あの子は昔から教えたりするのが好きじゃったからねぇ……それに、先生だったら奨学金を返さなくてもよかったのにねぇ……そう、育英会っていうの?……子供も、A大学だったかしら?私にはよくわからないけど、研究とかしているようなのよ……PTAとかもずいぶんやりましたよ、小・中・高、全部。ああいうの、一文の得にもならないなんて言う人もいますけど、なんだか一生懸命やってしまいまたねえ……でも、やはりそういうのが子供にも見えてたんじゃないかと思うんですのよ……

 ということを、延々と、およそ二周半ループしたあげくようやく止まった。止まるまで笑顔で(それこそ、『診察室的』笑顔で)聞いていたわけですが、さすがにみずみずしかった僕の笑顔も、二周半も突風にさらされていると、ちょっと干涸らてしまった。
 

 それにしても、本当に自分のことばかりよく出てくるなと感心する。外来でも、こういう「自分のことを一方的(なおかつ、何度も)に喋る人」というのは常に一定頻度おられるのだが、それは商売だからと我慢して聞いていた。だが商売の枠を外しても、どうやらそういうものらしい。

 こういうお話を遮るのは僕はあまり得意ではないのかもしれない。診察をしている時などでは頃合いをみて「本題に入りましょう」とか言って治療に関する話へ向けたりしますが、こんな状況では、ないもの。本題。

 あからさまに興味なさげな態度も好きではないしねえ。

 ただ、僕としては途中内心ひやひやものだったのだ。

 もし返す刀で「あなたは?」と尋ねられたら。

 こんなことを言っては大変失礼なのだが、おばあさんが自慢として挙げていた、子・孫の学歴、僕からみると正直言って、そんな大したことない。もしあなたはどうなの?と聞かれて答える僕の学歴は、おばあさんを恥じ入らせるには十分なもので、逆に今まで笑顔で聞いていた自分の態度が偽善・傲慢・失礼に逆転しかねない。

 人間の価値は学歴では推し量れないことは、この僕自身が一番よく知っている。学歴なんてせいぜい金メッキに過ぎないのだ。「たかが」金メッキ。だが、この方の持ち出す文脈では「されど」金メッキ。

 このおばあさんだって正味のところは学歴至上主義ではないに違いない。単に「子ほめ・孫ほめ」がしたいだけであり、客観性を持って他人にも最大限自慢できる材料ならなんでも使うし、単にその一つが学歴であったに過ぎないのだろう。もっと言うと、この方は自分の子や孫を誇らしく自慢してはいるものの、それはつまるところ、彼らにそういう人生のレールを敷設してやった自分こそを自慢するための行為である。それを、他人へ話すという形をとってはいるが、実のところ、話しているのは自分自身だ。つまり自己暗示なのだ。

 僕としても、必ずしも裕福ではない中で三人の子供を育てあげた、このおばあさんを尊敬することにやぶさかではない。僕がおそれたのは、この方のそういう完結した世界を壊してしまうことである。ポジティブフィードバックのかかった自慢は、客観的な評価には耐えられないから。だれだって、人生の最晩年期には自分の人生の収支決算を黒字であると思う権利はあるのだ。

 だが、いかにそうであるにしろ、車中での和気藹々とした世間話という枠組みを利用して、滔々と自分の自慢話ばかりをまるで独言であるかのように語る、そしてそれを聞かされるという関係は、ちょっとアンフェア過ぎないか。そういう感想を抱かざるを得ないほど、そして先ほどの自分の躊躇を引っ込めるに十分なほどに、おばあさんの話は一方的すぎたのだ。
 

 とはいえ、別にお婆さんの鼻っ柱を折ることもなく、聞き役に徹して旅は終わり。なんだかやたら汗をかいた。よかったなおばさんここがホストクラブじゃなくて只で自慢話聞いてもらえてなんて思いながら、ちょっとした敗北感と共に席を立った。なぜ僕が敗北感を感じなきゃいけないんだ。

 ふと気づくと、そう空席のない車内で、おばあさんは三人がけの座席の真ん中に座っており、窓側には自分の荷物を置いている。

 なんだ、そうか。