55歳の医学部受験


 55歳で医学部受験をした人がいるそうな。

詳細はこうだ。
入学許可求め、群馬大医学部を訴え−−55歳主婦、年齢理由に不合格で /群馬
 群馬大医学部(前橋市昭和町3)の今年度入学試験で、年齢を理由に不合格にしたのは不当だとして、東京都目黒区の主婦(55)が大学を相手取り、医学部医学科入学の許可を求める訴えを30日までに前橋地裁に起こした。
 訴状によると、主婦は今年度入試で医学部医学科を受験したが不合格となった。群馬大に個人情報の開示を請求すると、主婦のセンター試験と2次試験の総得点が、合格者の平均点を上回っていたことが判明。
 入試担当者に説明を求めたところ、55歳という年齢が問題となったという説明を非公式に受けたという。原告は「年齢を理由とした不合格判定は合格判定権の乱用」と主張している。
 群馬大総務課は「事実関係を調べたうえで対応を検討したい」と話している。(毎日新聞より)

 いつも、こうした引用をしていいものかとどきどきするのですが、それはさておき。

 僕がこの記事をみて思い出したのは、二月ほど前の、50歳の視力障害の男性が国家試験を合格したというニュースだった。

全盲者として全国2人目の医師国家試験合格者となった茨城県ひたちなか市の大里晃弘さん(50)の臨床研修を受け入れる病院が見つからない。研修の履修診療科が増えたこともあり、視覚障害者の研修に対応できる病院がないためだ。医師法では、診療行為をするには2年以上の臨床研修が必要。大里さんは「このままでは、夢だった精神科医になれない」と頭を抱える。厚生労働省も「制度の“谷間”といえる。相談に乗りたい」と欠陥を認め、対応に乗り出す構えだ。【土屋渓】
 大里さんは東京医科歯科大在学中に視力が低下し始め、82年に同大を卒業して数年で全盲になった。当時、視覚障害は医師の「絶対的欠格条項」に該当。医師国家試験を受けられず、マッサージ師の資格を取って生計を立てた。01年の医師法改正で点字でも受験できるようになったため、大里さんは問題集をボランティアに読んでもらって点字パソコンで書き取るなどし、3度目の挑戦で今年合格した。
 昨秋から臨床研修の受け入れ病院を探している。医学部生は全国約1000カ所の「臨床研修指定病院」と大学付属病院から研修先を選ぶ。選考試験を受け、医師国家試験を受ける前年秋には内定するのが普通という。
 大里さんは昨秋、母校に電話で「研修を受けられないか」と相談したが、点字の選考試験もなくあきらめた。問い合わせた民間病院数カ所も「視覚障害者への特別な配慮はしていない」。現在は、県を通して受け入れ病院を探しているという。
 厚労省によると、03年に全盲で初めて医師国家試験に合格した男性は、既に臨床研修を終えて関西の大学病院に勤務中。しかし、当時は内科など一つで済んだ履修診療科が04年度開始分から計7診療科に増え、ハードルが一段と高くなった。
 同省は「視覚障害者が健常者と同様に7診療科の臨床研修を受けるのは無理がある。現制度は視覚障害者の履修を想定していない。専門家の意見によっては見直しも必要」と話す。大里さんは「国家試験に合格しても臨床研修ができなくては何にもならない。何らかの配慮をしてほしい」と訴えている。
 ◇例外規定も必要
 ▽医事評論家の水野肇さんの話 率直に言って、医師の仕事の中には、目の不自由な人にはできない分野はある。しかし、精神科は可能だと思う。国家試験に合格して基礎的能力は持っているわけだから、臨床研修について、何らかの例外規定を設けるべきではないか。このままでは、ハンディキャップを克服して国家試験に合格した人を裏切ることになってしまう恐れがある。
(毎日新聞より)
 おそらくこの二人が、平均的な医学生よりも(そして平均的な医者よりも)向学心にあふれ、能力的にも優れているのは間違いないと思う。それを前提にした上で考えをすすめてみたい。
 

 去年から、医学部を卒業し国家試験を合格した医師は『臨床研修制度』に定められたカリキュラムに則って二年間の初期研修を行うことになっている。これは基本的に全員に義務づけられている。

 こうした研修制度が生まれるに至った背景には、1:医療教育の格差、2:専門医偏重による基本的スキルの軽視 などの諸問題があったからだ。

 専門医は、自分の領域のみを診て、他の領域の患者は診ない。いわば「狭く深く」であるが、今まで大学などで施されていた教育の多くがこうした専門教育偏重なものであり「広く浅く」診られるジェネラリストは軽視されていた。それによりアクセシビリティの低下や、複数科にかかる患者のマネジメントが充分にされないなど、患者にとって不利益が無視できなくなった。(こうした現状で象徴的に用いられる都市伝説的なエピソードが、「ほとんどの医師は飛行機の機内で急変した患者を診ることを躊躇する」というものである。)

 さあれ、こうした問題をうけて、改善策として新しい制度が作られたわけである。正直にいえば今のところこの制度はあまり効率的に機能しているとはいえないが、この制度のコンセプトは、簡単にいうと、国家の提供するマスプロダクトとしての「医師」の品質保証である。複数の化をローテートさせることで能力の均質化を図り、少なくとも最低限のジェネラルな能力を有する医師を量産しようというわけだ。

 

 研修医制度に限らず、近年の医療政策は基本的にはこうした流れに添っている(たとえば医師の免許更新制、定年制の検討など。)。この流れはすべて医師である我々の自由度を以前よりも限定するものであるが、これらを正当化する背景には、医療を提供する医師の側のエゴと、医療を受ける患者の側のエゴでは、常に患者側が優先されるべきであるという原則がある(※1)。少なくとも保険医療は、国家予算と、医療を受ける側の予算で賄われている以上、その制度下で働く医師は言うことを聞きなさいね、というわけである。

 では、ここで立ち返ってみよう。上記の二例に。

 上記の二例はいずれも、こうした「医療の標準化」という流れに、逆らっている。残念ながら。彼等は優秀であることは間違いないが、「量産品」(言い方が悪ければ「規格品」)としての、医師の資格を満たさない。従って国家の提供する「規格品」としての医師には向いてないように思われる。

 医療費の高騰とかいろいろ言われているけれど、現在の日本における国家の医療政策の目標は未だに「医師の安定供給」だ。まずは、品質の均質化した医師を量産し、出来るだけ偏在なく配置すること。足りない分をなんとかしなければ次の段階、つまり、多様な(つまり、品揃えが豊富で)高度な最先端の医療を提供するという段階には進めないのだ。
 (尤も、都市部では状況が異なっているし、こうした医療の高度化は放っておいても医療者側が勝手に進めてくれるので、官がコントロールしなくてもよいのかもしれないが)
 

 以上が両者に共通する私の感想であるが、それぞれに異なる部分もある。

 まずは、視力障害の男性である。

 確かに、全盲であれば、臨床研修は事実上無理であろう。麻酔科研修、救急部研修には耐えられないだろうし、患者にも迷惑がかかる。しかし、国家試験を合格したのであるから、医療行為を行う裏付けはある。特に、彼の望む精神科、コンサルティングをはじめとする外来業務などには、支障はないように思える。ネックとなるのは「保険医」もしくは「医療機関の事業主」に関わる部分である。

 彼こそが、「規格外」ではあるが、それを凌駕する魅力を持った医師なのかもしれない。今の段階ではわからないが、すくなくとも将来花開く可能性はある。

 厚生労働省も、個別対応したいというコメントもあるし、量産型ではなく、「プロトタイプ」として生きる道はおそらく開かれるのではないかと思う。最悪、国が対応してくれなくても、医療行為は出来るのだから、保険診療外で金持ち相手の精神科専門のプライベート・フィジシャンなど適任ではないかと思うが。全盲であるということはプライバシーに過敏なこうした顧客にとってはむしろ長所ですらあるかもしれない。
 
 一方、群馬大学に入学しそこねた女性。

 大学当局は、ずいぶん苦慮したのではないかと察するが、正直にいって大学側の対応には首をかしげる。結局の所、これは医学部がなんなのか、という問いに対する大学当局の解答である。医学部は、「大学」という「開かれた知の舞台」に属するのか、「単なる職業訓練の場」に過ぎないのか?

 確かに多くの医学部はその大学の学部の中では最も入学するのに高い偏差値を要するが、想像を発動する余地の極めて少ない、知的には不毛な学部だ。内実「単なる職業訓練の場」に過ぎないのは、入った人間なら誰でも知っていることであるが、大学当局にはあくまで「知の舞台」であるという大学としての矜持をみせてほしかった。

 それに手続き上の瑕疵は免れ得ないと思う。国立大学の試験としては募集要項がすべてであるから、大学の事情によって募集要項外の要件を持ち込むべきではない。いくら内実「職業訓練学校」であったとしても表向きは公立大学面をしているのですから、公立大学としてのルールには従わなくてはいけない。これは「試験」というもののプロセスに関する誤り。

 それから入学を許可しなかった意志決定の経緯が不透明なことと、発覚した顛末。結局、女性の側からの照会で露顕したということは大学は「学力試験で通らなかった」ということにしてその経緯自体を「なかった」ことに済まそうとしていたのは明白であり、当事者が許せないのも当然かもしれない。教授会で話し合ったのか、それとも事務レベルで協議しただけなのか。この女性には非公式にでも入学の動機などを確認するべきではなかったかとも思います。補欠入学で多目にとっといて、女性に意志を確認し、体力・年齢等大変ですよということを説明して辞退を薦めるか、どうしても意志が固ければ入学許可すれば今回のようなトラブルにはならなかったのではないかと思う。確かに大学の対応は人をコケにしている。

 いずれにせよ、もし裁判になるとしたら、大学当局には、上記のように手続き上の瑕疵がありまくりなので、少なくとも女性の主張が全面的に退けられることはないでしょう。
 

 だが、きっと、大学としてもなりふり構ってらんない状態なのだろう。地方の大学病院を取り巻く情勢は厳しい。一人でも多く「使える」人材が入ってくれなければ困る。矜持……なんてそんなやせ我慢をしている余裕はないに違いない。そもそもが新設医大の殆どは「職業訓練学校」として作られた経緯をもっているではないか。今回の大学側の対応は、あまり世間には知られていない大学の本音がぽろりと出てしまったような感はある。

 この方が本当に職業として医師を目指すために試験を受けたのなら、それは間違いなく現実味を欠いた選択だ。今のところ医師の定年制はないが、多くの勤務医には定年が存在する。医師そのものの定年制も検討段階に入っているからだ。

 この年齢で大学受験をしようとする積極性。優秀であるのは確かだ。オンリーワンの医師になる可能性は十分にあると思う。しかし、「国策」である量産型医師の生産ラインに乗っかれないのも、また確かだ。

 医師は、施療行為をなす一連の職業の中では最高の自由度を持つ。さぞかし魅力的な資格にみえるには違いない。しかしそういった自由度との引き替えに、医師の行う行動には外からみているだけではわかりにくいような様々な制限がかかる。医師の行う施療上の意志決定は一見極めて自由にみえるが、それは患者あってのことだし、医師という職業はその性格上、警察官や消防士と同様極めて受動的なものである。

 裁判を起こすということはいけないとは言わないが、ま、手段としてはあまり穏当な方ではあるまい。そういう類の積極性を示すキャラクターは他の職種にて歓迎されるようには医者においては歓迎されない。それは、本質的には受動的である医療というものにおいてはしばしば能動的過ぎる施療者は患者の利益を損ねる危険があるから、そして単純にホモ・ソーシャルな医師集団とは馴染みにくいからである。国民の求める医師像というのは「右の頬を打たれたら左の頬を差し出す」ような者ではないのか。いや皮肉が過ぎたか。

 それに、自己実現のためなら、群馬大学を受ける意味がわからぬ。ここはそういうところではないでしょう。「知の舞台」としての大学を期待しているのなら、東大か京大にでも行けばどうですか。アカデミズムの矜持を持つこういう大学なら、合格する学力を持つ人間を無碍にはねつけることはおそらくないでしょうから。

 群馬大学を合格出来る学力が、自分の意志を最優先できる自己裁量権を保証しうるに十分であるとは僕には思えない。

※1 「常に」そうあるべきだ、とは私は思わないが。