国家試験は必要最低限の勉強で通るべきか?


「国家試験なんて、ちょっと勉強したら通るよ」、っていい、真面目に勉強し倒す人間を小馬鹿にする人がいる。どこにでも必ずいる。国家試験の勉強なんて、実地臨床と全然違うし、という人もいる。

 「効率」という面からいうと、合格に必要なギリギリの勉強をするという方が、ただただがむしゃらに勉強するよりもスマートなやり方ではある。正論だ。国家試験を通り抜けた身から言わせてもらうと、確かにそうだ。

 国家試験を受けるに際して、医学生の半分以上は合格に最低必要な勉強量の3倍から4倍は勉強しているだろう。国家試験は合格者に順列を作らないし、上位の成績をとったところでまったくメリットはない。合格さえすればよいのだから、高得点をとろうとする戦略は、確かに無意味といえば無意味だ。

 だけど、思う。

 そもそもが、医療ってのはおよそ効率とは縁遠いものだということを。

 国家試験において「効率」を適用し、要領よく勉強する人間は、いざ医者になって医療現場においても「効率」を重視しないか。そうした「効率の追求」というものは治療者として必要な何かから決定的に遠ざかることにはならないだろうか。
 

 新臨床研修制度になれば、合格生の殆どは中規模〜大規模の高次機能病院で初期研修を行うことになる。そこは、医学の原則から崩れない医療が行われている場所だ。簡単に言えば、医療者側に優位な治療が行われているということだ。

 研修医は患者の医学的側面を評価し、医学的な診断を下し、治療をする。そこでまず評価されるのはあくまで医学の枠内で患者を正確に捉えることだ。この評価基準に従い、検査や所見を評価し、多くの患者をよどみなく、そしてゆるぎなく、正確に治療してゆくことが優れた研修医の条件と考えられるだろう。多忙を極めるこうした大規模な病院では、「効率」を重視して、一人一人の患者の人間的な、家族的な、経済的な背景にあまり注意を向けず治療に打ち込むことすら可能であるし、それこそが求められることなのだ。

 確かにそうやって、要領よく最低限の勉強をし、国家試験を終え、研修医になって、要領よく仕事をし、ミスも少なく、上司の受けもよく、症例数もこなし、仕事の切り替えもうまく、アフターファイブも楽しく過ごす。頭も切れるし、職場の信頼もあつい。EBMで証明されたことをミニマルエッセンスとして頭に叩き込んで、それから逸脱しないのでスタンダードな治療から外れることもない。白状してしまうと、臨床というのはある種の割り切りを許せば、かなりシンプルな治療戦略に収斂することが出来るものだったりする。

 それは、確かに医者としてのある種の理想型なのかもしれない。我々が到達すべき、ミレニアムの住人なのかもしれない。厚生労働省が志向している求められる医師像というのも、まさにこうなのかもしれない。

 だけど、だけど。
 だけど、僕の中の何かが、それを拒絶する。

 違和感を感じている僕がいる。

 ぼくは。

 僕は、国家試験に向けて無駄とも言われかねない程の努力をした、君たちが、大好きです。どうぞそのまま、その要領の悪さを忘れないでください。

 今の医学教育自体が、要領だけでは得られない、言葉に出来ない何かに対する畏敬を失っているのは残念なことです。医学を志すのであれば、自分の実力や医療の力を越えた絶対的な何かに対する畏れをというものを持っておいた方がいいと思う。そうでなければどこかで足元をすくわれる。人間の身体というものは、時々、教科書に書かれている事実を越える。その時に、どう対応するか。

 大規模な病院で沢山の症例をこなすことは、高速道路を走るようなものだ。目的地には早く到達することが出来るが、道端に生えている草花や、家並みに注意が向けられることはない。

 95%以上の患者はいわゆる型どおりの診療をしていれば済むが、ごく一部によくわからない症例というのは存在する。そうしたバリアンス例は、真面目に取り組めば全体の5%しか占めていないに関わらず、それ以外の95%の症例を見るのと同じぐらいの労力を要することだってあるのだ。

 国家試験の得点戦略からいえばこうしたレアな病気、非典型的な症例はあっさりと切り捨ててしまった方がスマートに処理することが出来る。「効率」を重視して国家試験に望んだ人は一体こういう人に対して、どういったアプローチをするのか。果たして、泥臭い方法が取れるものなのか。

効率よい得点戦略志向の国家試験というのは、臨床の本質から外れた行為であると僕は思っているのだ。



(初稿 Mar. 2004)