老いについて:


—人生について


ベンジャミンフランクリンがいうように
「男は40過ぎたら自分の顔に責任を持たなければならない。」
というのももっともかもしれない。

 小学校の1,2年生の時である。

 僕の通っている小学校は集団登校で、同じ町内の子は列をなして登校するならわしだった。引率してくれるお兄さんは6年生か5年生だった。

 僕は小さい子供で、頭が彼の尻の少し上の処くらいにしかなかったので、ランドセルは僕の目線の上に在り、僕は毎日高いところにあるそのランドセルを見上げて通った。
 そのときの班長は非常に穏やかで、如何にも「年上」の優しさを持ち合わせた人だった。彼はとても分別ある大人に見えた。
少なくともその当時の僕にとっては。

 6年になると、今度は自分が集団登校の引率をする側になった。しかし、実際、小学6年生なんて子供もいいところだ。かつて自分が抱いていた「尊敬と憧れ」を引率した低学年の子に与えられるような威厳など持ち合わせるはずもない。「イメージが違う」と、その時は子供心にひどく落ち込んだ。いまから思うと無理もないし、そこで落ち込むのもいかにも子供らしいような気がする。

 中学に上がった。僕は中高一貫校に入学した。

 やはり、中学一年からみると高校2年生くらいのクラブの先輩はとても大人に見えた。しかし自分が高校に上がってみると、そのような落ち着きはないし、相変わらず悪ふざけや莫迦話ばっかりしていた。
大学もおなじ。それの繰り返しである。
「大人」に追いついたと思ってもいつも自分は「子供」のままだ。

 小学・中学の時は、20くらいのお兄さん・お姉さんってものすごく「大人」だと思っていた。しかし、気がつくと今の僕はその年齢を越してしまっている。

 唄にあるように「気がついたら大人になっていた」ということはなく、精神は子供のままで、ふと鏡を見ると容姿だけが風化していた。

 今でも僕の精神年齢は幼い。くだらない冗談をいったり悪ふざけが好きだ。またつまらないことで腹を立てたり、嫉妬したりする。整理整頓は大の苦手だ。おもちゃも好きだし、甘いものも好きだ。人間的には未熟者でまったくお話にならない。


 こうして、ずっと大人ではない自分に焦りと苛立ちを感じていたのだが、20をすぎて周りを見渡してみると、奇妙なことにみんな大人ではないのである。人格ができていない人は存外に多い。例えば40を越えるくらいで、妻帯者ですら、ものすごく子供っぽい性格で、『どう贔屓目に見ても俺の方が人間出来とるわ』とか思えてしまう人が、それも結構な比率で居ることに気がついた。

 もちろん非常に人間が出来た人もいる。そういう人をみると年月の効用というものを実感するわけだけれど。

 年を食えば食うだけ、「人間の出来た人」「出来てない人」の差が極端になる様な気がする。

 20歳の時点でニュートラル(プラスマイナスゼロ)として、その後は自分の持っている性格をexaggerate(誇張)していくのではないだろうか。プラスの方向はますますプラスになるし、しかしマイナス面は年をとればとるほどマイナスに動く様な気がする。
 だから老年期には一人の人格の中に、非常に円熟し完成された部分と、しかし他の面ではむしろ20歳の若僧よりもたちの悪い性向が存在する。それが一個の人格の中に複雑に混在しながら同居している、というのが老年期の性格の真相ではなかろうか。

 
 人間、20歳過ぎても、その後は、ぜんぜん進歩しやしない。 20歳と40歳を比べると、40歳のほうが2倍分別があるような気がするが、年齢と成熟度が線形に相関するというのは錯覚の様だ。

 おそらく、人間の成長というのは連続的に増量するものではなくて、非連続的に生じるものではないかと思う。ちょうど階段を登る様な。10段くらいの階段をね。
 幼年期の人格形成期、青年期の反抗期などを経て、18くらいですでに7段目くらいにいて、あとは結婚したとき、退職したとき、大きな病気をしたときなどに一段ずつ上がるくらいしか成長の余地はないのではないか。

 性格に関する限り、齢を重ねるだけで欠点を克服する、というのは絶望的に楽観的観測に思える。
 
 少なくとも今の僕には、あのころと同じように、高い目線で見上げることができるランドセルは、ない。

(2000/4日記改, 2001/1/10)