医者と靴


医者の風景学

—mono mono シリーズ


 こつ、こつ、こつ、こつ、「お早うございます」
 

 医学生だって学生だ。普段着でジーンズをはくのは当たり前だし、運動部の人達はスニーカーを履く。(もちろん運動部でなくても、履く。) しかし臨床医学実習(ポリクリ)が始まると学生という立場ながら病院内が活動の中心となるわけで、色が派手で目につきやすいスニーカーを履いてて、うるさ方の先生に注意される、というのはポリクリ開始後2、3ヶ月目に必ず見掛ける風物詩でもある。

 しかし、革靴というのは足が疲れる。リノリウムのような硬い床であればなおさらで、しかも院内はこういう床が大半なのである。

 それに、案外医者の仕事は立ち仕事が多い。外来が主な年輩の医師はともかくとして、病棟を主戦場とする医師は、それこそ一日中病院中を歩き回っているのだ。靴の善し悪しは存外に大きなファクターであるといえる。


父の場合


 私の父も医者なのだが、だから彼は疲れにくい靴を選ぶ。
 彼が靴を選ぶポイントは2つ。「軽い」と「柔らかい」だ。

 だから、軽くて柔らかそうな靴を売っている靴売場で「軽くて柔らかいです」というような顔をして並んでいるいかにも軽くて柔らかそうな靴を買ってくるのだ。

 実際、軽くて柔らかい。

 そういう靴の外見は、やっぱりあまり良くない。私を含め家族のものは長年それを嗤って居たのだが(母は『色気もくそもないゴキブリみたいな靴』と容赦ない(*)。)、それは案外、医者経験の長い彼なりのBest Choiceなのだろう。

 それに、父の足はベタ足で長さの割に幅が広い。あまり普通のデザインの固めの靴はサイズが合わないし、足がすぐ疲れるのだという。(靴のサイズ等に僕はあまり詳しくはないのだが、3Eとか4EとかEがいっぱいついたやつを履いている)


(*)こういう靴のことは業界用語で、「ギョーザ靴」と言うらしい。中年のビジネスマンにこの手の靴は異様に愛好されているが、正式名称をソフトモカシンという。
 
 私は、といえば学生の頃から革靴が好きであるし、だから、ジーンズもはかない。

 締まったシェイプで裏まで革張りのフォーマルな靴が好きだ。リノリウムの床を歩くときに靴の立てる音が好きなのだ。気持ちが引き締まるような音がするからである。

 しかし、身体に(というか足に)やさしくないのは確かだ。実際問題足は相当疲れる。長時間立ったままの姿勢を強いられるので、仕事を始めてからはその類の靴はまず履かなくなってしまった。今は「『普通の革靴』で裏はゴム地」まで妥協している。

 消灯時間を過ぎてからの問題もある。夜中のコツ、コツ、という靴音は患者さんにとってかなり耳障りらしく、夜間は固い靴は絶対にタブーだ。老人の患者さんの不眠やせん妄の原因にはなりたくないので夜中呼ばれたときはズック靴のようなのを履いて忍び足で行くことにしている。

 というわけでフォーマルな靴からは徐々に遠ざかっている私なのだが、でもまだ、父のように「機能性抜群ゴキブリ靴」にまではいきたくない。まだまだ艶っ気が欲しい。けど、足の疲れは確かに減らしたい。

 ジレンマなのだ。



裏ドレスコード


 もう一つ、医師の「裏ドレスコード」なるものがある。サンダルである。

 学生がスニーカーをはくことに対して年輩の先生はあまりいい顔をされない。が、サンダルを履くことは多くの場合あからさまにいやな顔をされる場合がある。

 ここには些か複雑な事情もある。服装にうるさい先生はサンダルだってもちろんダメだと思っているわけだが、学生の手本になるはずの若い医者のかなりの数がサンダルを常用にしているという背景がある。だから、学生にサンダルを禁じてはみるものの、説得力を持ち得ない場合がある。サンダル履くな、とは言いにくいわけだ(言うてはるけどね)。

 たとえば外科の先生は手術場に頻繁に出入りする。その時靴下もぬぐので、何回も出入りする場合サンダルの方が便利だ。内科でも血管造影などを行う場合、手術に準じた格好をするのでやはり便利だ。

 服装にうるさい先生というのは割と年輩の方が多く、検査に入る回数も少ない。検査や手術を沢山する「実働部隊」のような脂ののりきった若い先生は、サンダル履きで手術衣の上に白衣をはおり、あたりを睥睨しながら颯爽と歩いたりする。

 そういった先生は忙しいので学生の服装なんか注意したりなんかしない。彼らにとって学生なんか道端のゴミみたいなもんで、はっきりいって歯牙にもかけられていないだけなのだが、そういうのがちょっとかっこよくみえて、学生は憧れたりもする。あろうことか服装なんて卑小な事柄(と学生は考える)をがみがみ言う(本当はきちんと注意してくれているのだ)上の先生を軽んじたりする。

 
 

  ちなみに3年目の今の私はどうか。

 サンダルにはやや抵抗があったが、去年Nicole Fahriのサンダルを買った。時々履いている。いつもは大抵靴を履く。革靴だがソールはゴム地ででやや柔らかめのものを選ぶようにしている。

 しかし、おしゃれな靴を履いているときに限って、検査の時に血が付いたり、あまつさえ、ウンコがついちゃったりするものである。


 
 そうだ、今これを書いていて思いついたが、父にビルケンシュトックの靴を買ってやろう。