当直の翌日:


—匂い論 その1

医者の風景学



 これを読んでいる医者の皆さん、当直中風呂に入りますか?


 忙しい病院で当直をしている人に聞けば「風呂?とんでもない!」という答えが返ってくるだろう。救急を診る当直では基本的には入浴は不可能だ。たとえば風呂に入っている間にコールがありそれが心肺停止などであれば目も当てられない。責任問題にもなるだろう。

 僕もレジデントの間は原則的には風呂には入らなかった。

 問題は、結構暇な当直の時である。

 呼ばれない時間が長いので風呂に入る時間をとることは可能だ。だがいつ呼ばれるかという気持ちのためか僕はなかなか風呂に入ることが出来ない。これは小心故なのか、それとも皆そうなのか。

 当直中に風呂に入るか否かというのは、ようするに職務と自分の(清潔という)QOLを天秤にかけているわけである。仕事か、自分の都合か。自分の事情を優先するのには何かしらの後ろめたさがついてまわる。まともな職業人ならそう考える。

 だけど、そうはいったって僕たちだって人間だ。36時間連続勤務では(医者と眠気参照)、当然、くさい。そういう時は自分の体のべとつきが不快であるし、汗の匂いも気になる。髪はべとべとするし、服だって気持ち悪い。「考える葦」であるよりも前に、僕たちは哺乳類なのである。

 そういうときには少し香水を使ったりしてごまかすこともある。実際、ごまかせてないと思うんだけど、せめてもの気持ちなのである。

 実は基本的には医者は香水の使用は御法度なのである。初期研修ではそう教わる。患者さんに不快感を与える服装は禁止、過度の化粧(女性の場合)、香水、装飾品は不可と口を酸っぱくしていわれる。接客業だからこれは当然だ。それに、たとえば肝硬変の患者さんなどは嗅覚が変容しているらしく、香水とかの匂いを不快に感じることがあるらしい。そういった点でも推奨されない。

 確かにギンギンに香水の臭いがするのは清潔感があるとは言えない。しかし患者さんにしてみれば風呂に入ってない臭い医者に診察されるのと、香水の匂いのする医者に診察されるのとどっちがいいだろうか?

 「清潔感のある服装にしろ」というのは常識であり、また正論だ。
ならなぜ清潔でいられないような勤務態勢を強いるのか。

 まずそれを是正してはくれまいか。

   医師としてかくあれという要求は互いに矛盾があり、破綻せずに一人の人間の中で体現することはなかなか難しい。
 こうして研修医を卒業した辺りの医者の多くはこの矛盾に気づき、香水という禁止条項は破られる。
 

 現在の私は暇な当直であれば、朝5時とか患者さんのあまりこない時間を見計らってこっそり風呂にはいるようにしている。だが、5時頃に呼ばれることも時にあり、そういう日はやはり風呂に入れず、べたべたした体で一日過ごす羽目になるのだ。

 そんな日は、たとえば超音波とか密閉した空間で行われる検査の時は思わず口で息をしてしまったりする。いや、本当は患者さんに「口で息してくださいね〜」といいたいくらいなのですけれども。



 それから実践的なアドバイス。

 そうはいっても患者さんや同僚に不快感を与えてはいけないので、香水を使うとしてもせいぜい1プッシュにとどめること。半押しでちょろりと出てくるほんのわずかでもよいくらいだ。それくらいの量なら迷惑になることはほとんどない。

 また、いわゆる香水のセオリー、手足の末端部につけるのも避けた方が良い。
 動脈がういている部分につけるのはその部分では温度が高く、香りがたちやすいからで、こうしたつけ方をすると手足を動かすたびにほのかに匂いが立ち上って香水的には大変よろしい。だが我々は匂いをアピールする職業ではないのだ。

 周りには匂いにくく自分にはよくわかる、前胸部につければ、あまり不快感を与えることはないだろう。


(Aug 2003.初稿 Sep改稿)