匂いと社会


—匂い論 その3




当直の翌日 匂い論1
匂いと肉体

 匂い論2

 前述したが、医療現場というのは他の職種と違って体臭というものと無縁ではいられないという話であった。

 健康な人に比べて、何らかの疾病を持っている人は風呂に入ったり清潔に保つ事に支障をきたす場合がある。
 一日一回きちんと風呂にはいり自分の体臭に気をつかうことが出来るということは、いささか高すぎるハードルではあるが健康のバロメーターである。
 元々日本人は民族的な風呂好きに加え食事のためか体臭が薄い。外国と比べると日本人の求める体臭基準はいささか厳しすぎるように思える。
 

 ところで、香水というのは本来は体臭を修飾するものだ。(ごまかす、といってしまうと身も蓋もないが。)しかし外来では、この香水の機能論的な観点からはパラドキシカルな状況が生まれている。

 診察室においては、香水を付けている人はほとんど自分の体臭を持たないし、体臭がきつい人は香水を付けたりはしていないのだ。

 外来に来る人で香水を付けている人は軽い風邪とか、健康診断でちょっと引っかかったサラリーマンの方だとか、そういう「普通の人」がちょっと体調を崩して病院に来る場合が殆どである。自分の体臭は殆どなく、ただ香水の匂いを纏っているだけだ。

 その一方、(疾病の程度が強い為に)風呂に入る余裕もなく、勿論香水を使う余裕もないような人は異臭を放っているし、服も汚れていたり、疾病による影響が痛々しい。

 香水とは一体何の為なのか。生野菜にマヨネーズをかけてこそのマヨネーズなのだが、マヨネーズがマヨネーズだけでおいてあり、生野菜は生野菜のままなのだ。
 

 清潔である、という徳性はそこに非難の余地はないように思えるが、無自覚な分、容易に好悪に帰結しやすい。清潔さを評価軸に他人を峻別する場合、理性が働かせないまま「不潔」なものを排除しがちになる。

 そして不潔さは清潔さを受け入れることができるが、清潔は不潔を受け入れることができない。対立する評価軸、例えば理性と感情、戦争と平和とは違って、結局は清潔さの多寡なわけだから、清潔〜不潔での評価は二項対立ではなく階層化に向かう。


 私が危惧しているのはこの『好悪』が一個人の視点ではなく社会全体でも同様であり、この階層化という差別が今後大きな影響を及ぼすのではないかということである。

 外来での匂いというのは大した問題ではなく、やはり入院の方が体臭に関する諸問題は大きい。長期の入院患者は体臭が蓄積するし、そういう観点からは急性期病棟よりも慢性期病棟、慢性期病棟よりは療養型長期入所施設が体臭の問題が顕在化しやすい。

 現在の医療制度改革は「勝ち組」と「負け組」というものがだんだん明確になりつつあるが、このような階層化は真に病気で困っている人たちが行っているわけではなく、健康な人間が行っているとしか思えない。

 現在の諸改革で最も追い風となっているような都会の高機能型病院は入院日数が短く、都心部の勤労人口を対象としている。なに、なんのことはない、外来でも無臭の体臭に香水を纏えるような人を主に対象にしているのである。

 行くところのない老人が長期に滞在している病院や小さな個人病院に対する医療政策は厳しさの一途を辿っている。我々は都合のいい部分だけしか目を向けてはいないか。

 また、現在臨床研修指定病院となっている病院の殆どはそういった高機能型病院である。そういうところだけでトレーニングを受けた研修医は、長期入院患者に対する同情を失いはしないか。

 一月ばかりの入院後の行き先の果てに、そういう病院では行き先を決めなければならない。「老人病院」に紹介するか「老健施設」へ紹介するか。そういう教育だけを受けた人間が、その行き先に対して冷静な目で見ることが出来るのか。


 たかが香水と笑うなかれ。香水は外来においては階層化のキーとなっている。


(Aug 2003.初稿 Nov改稿)