「殺してやりたい」と思うこと。


死について その7



 僕がこのサイトを始めたのは2000年の3月。まともに文章を書き始めたのが2002くらいなのであるが、その間に日本国内で色々な事件が起こった。衝撃的だったのは池田小学校児童無差別殺人事件。また長崎の男児殺害など、加害者に何らかの異常性を窺わせる事件が多い。この文章はこういった状況を踏まえて書いたものである——。

 最近物騒である。物騒だよね。もっとも「今年の風邪はひどい」というのと同じ様に、そういう印象を受けるだけなのかもしれないが。

 小学校に押し入って関係ない児童を無差別に殺害するなど、信じがたいようなシチュエーションで信じがたい事件が起こったりする世の中なのだ、21世紀の日本は。今回の話はこの事件についてである。

 この宅間被告であるが、裁判でもまったく個人的心情を吐露することなく、一貫して反抗的であり、裁判も放棄に近いような態度である。確かに、謝罪をしてもしなくても死刑は死刑だし、逆にそういうところに死刑の凄みがあるわけだし。被告から悔恨の言葉を引き出せないからこその死刑をもって償うわけではあるのだ。

被害者の家族のこと

 僕は感情的な死刑論者ではないし、人道的な死刑廃止論者ではない。

(もちろん感情的な死刑廃止論者でもないし、人道的な死刑論者でもない)。

 自分の経験していない事象に関してはあまり想像が働かない私は、賛成反対以前に感情の量が少し足りないのかもしれない。正直にいうと、想像外の事象なので現在は肯定否定いずれか、旗幟を鮮明にできずにいる。ただ、現在の「死刑になって当然」という前提で行われる報道の姿勢には、少し疑問を感じているのだ。

 被害者の家族の気持ちというものがあまりに軽視されている、といわれて久しい昨今であるが、マスコミの記者会見で「(判決に対し)はっきりいって物足りないです。殺してやりたいです」と泣いている被害者の家族の会見に私はどことなく違和感を感じてしまう。こんな私は酷薄なんだろうか。

 確かに、「殺してやりたい」というのは本当であろう。自分の大切な人を殺された人がそう思うのはごく自然だ。そういう気持ちが思わず溢れてしまうのは仕方がない。

 だが、そういった気持ちを持つ、ということと、そういう気持ちをメディアに主張するというのは本来別なことではないかと思うのである。こういう感情的なコメントを衆人の目にさらすというメリットがその家族にあるとも私には思えない。感情を横溢するにまかせて、それをそのまま放映しちゃっていいのだろうか、果たして。

 一事の感情というのは必ず年月が経てば冷却する。冷却しないまでも肉親を失った家族の感情は激しく振幅するし、そのなかにはある種の葛藤を含むはずであろう。そして裁判という舞台では死刑判決であればいかに憎い相手とはいえ自分は人を殺す側の立場(この場合、国家が死を与えるわけだが)に与する。

 「肉親の理不尽な死」という事実を突きつけられ、事件直後の思考停止、また、その死の意味をただただ考えざるを得ないつらい時期を乗り越えた彼等にとっては、「死」というものは我々のそれと比べてはるかにリアルな存在であるはずである。少なくとも凡百の体験しかしていない我々の想像外にあることは間違いない。だから、いくら殺してやりたい相手であったとしても、その「死」は(傍観者である我々のように)単純に願えるものなんだろうかと思う。


被害者の家族という役割を為しおおせるつらさ

 

 それに、事件に関与する人達も、単純に線を引いて被害者側と加害者側に二分されるだけでよいのだろうか、という気もするのである。

 被害者の家族は、二分するならばもちろん被害者の側だ。だが、被害者その人ではない。こうした事件が発生した途端、「被害者側チーム」に組み込まれ、家族は被害者の代理人として責任を果たすことを要求される。墓の下の被害者が、もし生きていれば願ったであろう結末に向けて最大限の便宜を図らなければならない。

 だが、人生の目的が、誰か他の人のためであってはならない。個人は個人だし、個々人には利害の対立というものだって、あってしかるべきだと思う。(※)。

 被害者の家族の方はその事件に関する裁判や報道において、殺された被害者のために人生の一部を割くことを強要される。だが、テレビに映らない部分では彼または彼女にも彼らのための人生が営まれているのである。誰のためでもない、自分のための人生を。

 市井の一市民にとって「殺してやりたい」という発言は、重い。被害者の家族からみると、犯人を死刑台に送り込むことが被害者へのせめてもの手向けとなると当然思う。だが、実際に家族が「殺してやる」努力をしようとしても、裁判の趨勢には関係がない。それも当然で、昔の「仇討ち」システムならともかく、近代法では被害者の家族は努力できないような仕組みになっているし、むしろこれは、家族に非生産的な努力をさせないためのシステムといってもいいだろう。それに、じゃあ逆に考えると身よりのない人間は殺されても弁護されなくてもいいのかということにも繋がるわけだし。

 「殺してやりたい」という発言は、被害者家族として発せられた本心に違いあるまいと思うが、その発言は、被害者家族という立場を離れた一市民にとってはどうなのか。後になってその言動自体が彼等自身を傷つけてしまいはしないかと私は危惧する。事件直後というのはある種の「心神耗弱状態」に近い。そうした言動が報道され、後々までその後の人生にもついて回るのは不幸な事ではないかと思うのである。

 そういう観点からすると、「殺してやりたい」発言は、その言葉を発した家族をむしろ保護するため、あえて放送すべきではないと私は思う。復讐心の発露は自然だ。しかしその発言を公表すれば、その人のその後は「被害者家族としての人生」以外の形を取りにくくしないか。

 復讐というか、家族の無念を晴らすためにその後の人生を被害者のために捧げるというのは、なんとも救われない。事件は被害者のみならず、家族にも大きな爪痕を残す。裁判などにとられる時間も馬鹿にならないし、事件がなければ歩んでいたであろう人生の流れは、当然変わる。だが、事件によってストップさせられた人生を、そこに留まっていていいわけでもない。必ず元の人生を、自分のための人生を歩みはじめなければならない時が来る。被害者の家族が「普通の人生」を送れるようになるには、どうあるべきなのか。

 僕は、北朝鮮拉致家族の被害者の方とか、原爆被害者の身内の「被爆の語り部」の方とかを見るたびに、なんだか複雑な気分になってしまうのです。自分の為ではない誰かのための人生が、いつのまにか自分の人生になっている異常性。異常な事態に対して自己防衛するのに、異常を重ねなければならなかった彼等の人生を。

(※)こうした例は僕らの日常診療でも経験することがあって、患者を医療側−非医療側の二分法では大やけどをすることがある。たとえば、癌の告知問題。今でも癌が判明しても本人にいきなり告知することは少ない。まず家族に相談してから本人への告知を決定することが多い。
 だが、本人と家族で利害が対立している場合だってあるわけである。早期に治療すれば治りそうな癌などで、本人に癌の告知をしないでくれ、治療もしないでくれという家族がいて、よくよく聞けば愛人問題などで家族との折り合いが悪い状態であったことがあった。結局、家族の承諾を得ずに本人にやはり告知し本人は治療に同意したわけだが、普段我々は漠然と家族を医療−非医療側の非医療側、すなわち患者と利益を一にする側と考えており、こういうことを意識していないことを痛感させられた。

「復讐」

 

 それともやっぱり、家族を殺された日本人は、相手の死を願い、相手の死がそのまま自分たちの喜びにつながるのであろうか。

 日本人のメンタリティってそうじゃないんだと思うんだけどなあ。

 日本人は皆復讐心が旺盛で、自分の家族が殺されたなら、相手を捕まえて残虐な拷問を加え殺した死骸は城門に掲げ野鳥のついばむに任せたり、死肉を塩漬けにして頭蓋骨はくり抜いて杯にし、酒と塩漬け肉で宴会を開いたり、復讐相手を下に置いた大きな板の上で宴会を開いて復讐相手を圧殺したり、復讐相手の皮を剥ぎ取り、応接間に飾り来客に自慢げに見せたりなどの大陸的な行為をしたいのであろうか。もし可能ならば。

 そもそも、復讐を願い、成就されたとして、それで僕らは満足するのであろうか。こうした問題はすでに4000年前くらいから宗教などで繰り返し考察されている、全人類史のなかで比較的ホットなトピックなのだ。ハンムラビ法典やゾロアスター教ではいざ知らず、仏教、キリスト教、イスラム教など世間に広く流布している宗教のすべては、こうした復讐の成就が悩みの解消につながらないことを教えてくれている。

 法体系の歴史でも、それは同様で、復讐というゼロサムゲームを基盤にした法制度は、近代社会の法体系では必ず別の何かに書き換えられている。

 

 というわけで、僕は「殺してやりたい」報道には基本的には反対である。家族の人のそういった気持ちは当然のこととは思うのだけれど、それを報道する、もしくは報道させる側の方に見識のなさを感じる。

 こうした発言を敢えて報道することによって、マスコミは「裁く」という行為に対して道義的なイニシアチブを取りたがろうとしているフシがある。家族というもっとも説得力のある存在が発する最も重い言質を報道することで、(裁判を越えて)犯人を断罪しようとはしていないか。僕には権力をはき違えかけているように思える。

 中には冤罪だってあるだろうし、そういう場合、家族のこうした復讐めいた言辞は宙に浮いて気まずいものとなるだろう。そんなことがあったって、マスコミは責任をとらない。あくまで家族の方に「言った責任」(法律的にはいざしらず、道義的には)が押しつけられてしまう。

 

 傷つけられて自制心を(一時的、もしくは永続的に)失った家族に、マスコミは近づき味方のふりをする。だけど、その報道が家族を益するわけではなく、マスコミが追求しているのは自分達の利益である。

報道機関の究極的な目的は「世論」というコンセンサスに基づいた「断罪」である(それは、ワイドショーという名でもう始まっている)。彼等はそれを司法機関による裁判に取って代わるものにしようとしているかのように思える。より身近で迅速な、そして法廷よりも有力な裁判を自分たちの手で作る。それは結果的に透明ではあるがより強力な権力へと繋がるだろう。しかしマスコミに携わる人間にはそういった倫理感が総じて欠如しがちな傾向であることは明らかだ。


死刑制度そのものは

 ところで、ここまでは家族の「殺してやりたい」という発言について述べたわけであが、では、死刑制度というもの自体の是非については触れていない。
 お前の死刑制度に対する考えはどうなのか、といわれると困るのである。

 現行の制度には反対である。現在の「無期懲役」というのは終身刑ではなく「さしあたり刑期は決めませんよ」という意味であるから、模範囚であれば10年以内で出所することができるわけであるし、刑期は諸外国と比べても短すぎるような気がする。死刑制度をもし撤廃するならば、死刑よりも一等低い刑罰をもっと重くしないと、これでは確かに犯罪常習者に対して抑止力にすらならないかもしれない。

 しかし死刑そのものに関しては私はあまり賛成ではない。

 しかし、実は純粋に経済的な観点から言えば、死刑制度があった方が安上がりであろうとは思う。逃げ出せない刑務所を維持し、健康な囚人を生涯に渡って養う維持費は、国費から支給されるのだろうが、ともかくも大変な費用がかかる。さっさと「始末」しちゃった方が安上がりだ。これは純粋に経済的な視点であるので、誤解なきよう。

 と、こういう極端なことを書いている時点で、私の見識のなさは明らかなのだけれど。これでは、「効率のよい収容所経営」を考えていたナチスドイツの高官と同じだ。

 しかし、現時点でも刑務所の多くは飽和状態で、財政的にも苦しい状況であるから、死刑制度を積極的に廃止し、刑期を延ばす方向には政策は向かないのではないかという気がしている。

(初稿 Jun. 2003 改稿 Apr,2006)