少年犯罪と多様性




 池田小事件の宅間容疑者を敷衍して、被害者家族が犯人に対して「殺してやりたいです」という発言を放送するのは不適切ではないかと書いた。

 しかし長崎の男児誘拐事件を見て少し考え込んでしまったわけです。

2003年7月1日夜、当時大型量販店に家族で買い物に来ていて、一人でゲームコーナーで遊んでいた男児に対して、加害者の当時中学1年の少年が「お父さん、お母さんに会いに行こう」と騙す。電車に乗車、商店街を連れ回した後、人気の無い立体駐車場で被害者を全裸にし、腹などに殴る蹴るの暴行を加えた。さらに、ハサミで性器を数箇所切り付け、欲求を満たした後、逃走の邪魔になると言う理由で突き落とし殺害した。その後7月9日に、加害者が補導された。
この事件以前にも加害者は、男児を全裸にし暴行を加え性器を傷つけると言った異常性欲的事件を20件以上引き起こしていた。
加害者が、中学1年の少年で有ったため凶悪な少年事件として国内を震撼させた。

 前回、僕には感情というものが少し欠落しているかもしれないと書いた。その気持ちは今でも変わりないが、この事件はそんな酷薄な私ですらインパクトが強かった。


 あの被害者の家族の気持ちはわかる。わかるような気もするが、わかるというのも申し訳ない気がするのである。実際は、凡百の我々の想像を越えたところにあるに違いないだろうから。

 なんだろうか、あまりに事件が非日常すぎて僕にはぴんとこない。たとえば、トラックの運転手が酒気帯びで起こした高速道路の事故、こういったものであれば想像ができる。または、もともと仲が悪い人たちの恩讐からきた殺人事件。こういう『加害者の「顔」が見える』事件であれば事故を起こした人間に対し、僕は憎しみをもてると思うし「殺してやりたい」とも思うかもしれない。

 しかし今回の事件の場合も(池田小の事件の場合も多少はそういうきらいはあったが)「殺してやりたい」気持ちのもって行き場がよくわからないのである。事件そのものが自分には理解不能であるから、加害者の顔を人間として想像することができない。

 犯人に対して、憎しみよりはむしろざらりとした不安を感じる。その不安感は犯人個人に投射されるのではなく、世界全体に対する不信感として拡散する。世界の中に「犯人」という黒いしみが一点だけ存在するのではなく、まるで、我々を取り巻く世界全体が灰色の別の色調を帯びたような、世界の整合性、そのつなぎ目がどこかで綻びてしまったかのようなイメージである。僕がこの事件の関係者であれば、いままで自分なりに理解していた世界像というものが破綻してしまい、再構築しなければならない羽目に陥るだろう。


犯罪の低年齢化と凶悪化



 しかしこの事件では加害者がこうした猟奇的な事件を起こすには12歳とちょっと考えられないほど低年齢であるのが印象的であった。この事件に限らず、メディア上では犯罪の低年齢化がしきりに喧伝される昨今ではあるけれど、僕はこのことはそんなに不思議ではないと思うのである。

 人はみな同質ではあり得ないので、我々の社会は自然とある種の多様性を持ったぼんやりとした人間集団によって構成されている。「多様であれ」と強要されなくてもそうなるのが人間の本性だろうが、やはり多様であることを称揚される社会では、単一であることを強要される社会(たとえば戦前の日本)よりもより多様多彩になりやすいのは明らかだ。

 この10年20年、いや、戦後ずっと、日本の教育は「個性」志向だったわけである。オリジナリティが何よりも尊重された。

 つまり、母集団である日本全体に対して、個々人はできるだけばらついた方が良いわけである。統計用語でいうところの分散、偏差が大きくなる傾向が賞賛された。

 こうした事件を耳にすると、お年寄り達は「日本人はいったいどうなってしまったんじゃ〜〜」と、日本国民の「劣化」を嘆いたりするが、日本人の「平均」がここ何年かで著しく低下したとは思えない。(人間の優劣というのはそんなに変化するものではないと思うし、街頭インタビューで常識テストなどをしてみても、高年齢層であれ若者であれ知識のある人は知識があるし、しょうもない人はしょうもない。年代は関係がない。) ただ、個性、ひいては多様性というのを重視する傾向の帰結として平均からはずれてしまう人は増えてしまう。

 そしてそれは、良い方にも悪い方にも作用するのだろう。(※1)

 考えてもごらんなさい。メジャーリーグで日本人が何人もプレーしたり、日本人サッカー選手が海外で活躍したりしているのである。10年前、20年前にはそのような日本人はいなかったし、各分野でグローバルに活躍する日本人の数は昔より確実に増えている。トップクラスに関していうと、今の日本は昔に比べてより高偏差値なのは間違いないと思う。これらは「多様化」の良い面であると言えるだろう。

 しかし残念ながら悪い面も同じであると言わざるを得ない。日本人の平均が不変であるならば、バランスをとるために上の方のばらつきが増えると下の方も大きくばらつかざるを得ない。「極端に変なやつ」は、質といい量といい結果として昔に比べて増えてしまうだろう。

 松井やイチローを生み出す社会をもし我々が望むなら、その副産物として変質者の数が増えることを覚悟しなければならない。極端なことを言えば、松井やイチローも我々凡人からみれば全く異質な存在で、アブノーマル、ある意味「変質者」といえなくもない。犯罪界においても同様に「世界レベル」の人間が出てきてしまうのも不思議ではない。

「中田ハ世界ニ通用スルヨ」、然り。長崎の事件の犯人も世界に通用する猟奇ぶりなのだ。
 

  以前老いについてで書いたが、年を経ると言うのは良し悪しを問わず、自分の性格の中にある傾向を増大させてゆくことなのではないかと私は思っている。

 つまり、年をとるに従って性格に差異が広がってゆく。もちろん性格だけではなくて、環境や年収、社会的地位、仕事、家族構成なども各人間の相違は子供時代よりも大きい。故に大人社会の方が子供社会よりも多様性を多く含むことになる。逆にいうと子供社会の方が多様性は少ないはずなのである。本来は。

 我々がこの少年に対して何かしら違和感を覚えるのは、彼の起こした行動が我々がせいぜい想像可能な程度の「子供の多様性」の範疇を大きく越えていたからである。
 しかも、大人社会ほどは「環境」「年収」「地位」などの環境因は少ない。(生活苦のホームレスが食うや食わずでやむを得ず強盗殺人を犯す場合、もちろん罪は罪として、環境因が彼の行動に大きな影響を与えると思われ、我々が犯罪の背景を想像することはたやすい。)そういった環境因のゆらぎもなく、あくまで通常の環境で育った子供があのような事件を起こす。それは確かに我々の想像の埒外を越えている。この事件における我々の違和感は、つまりはそういうことなのではないか。
 
 問題なのは現在の法体制がそういう多様性の時代に対応していないことである。

 このような「世界レベル」で逸脱した犯罪者に対し、もはや我々は彼が「改心」して「正常」に戻ることを必ずしも求めていないが(※2)、少年法というのは基本的には更正することを前提にしている。つまりこのように非可逆的な存在に対しては全くナンセンスなのである。

 我々がそういう人材を社会の構成員として受け入れることができないのであれば、その人は剪定されなければならない。少なくとも「善良なる一市民」である我々はそういうことを望んでいる。しかしナチス・ドイツも同じ考え方をしていたことを我々は銘記しておかねばならないし、市民社会においてはこうした「剪定」を容認する倫理体系は存在しない。


犯罪の低年齢化は本当なのか?



 しかし、本当に凶悪犯罪の低年齢化が生じているのだろうか?

 インターネット上で「少年犯罪は本当に増加しているのか」という検証がされているが、マスコミが主張する少年犯罪の凶悪化にはやや無理があるように見える。はじめに結論ありきで、それに都合の良いデータだけを恣意的に集めているように思える。

 もしそうであれば僕が今日書いた文章も完全に宙に浮いてしまう。

 結局、犯罪と最もよく相関するのは「警察力」と「経済状態」であろうし、昭和30年代の犯罪は結局今の日本よりも経済状態が悪いというのが最も大きな理由に違いない。取り巻く社会状況が変化しているのだから同一条件で比較できないし、逆に言うとここ3,4年で犯罪件数がじわり増加したって心配する必要はないわけである。景気もそれくらい落ち込んでいるわけだから。

 ただ、人々の心に残る凄惨かつ不可解な事件が生まれる原因として「多様」という面からアプローチすることもできるのではないかと思う。




※1ばらつきというのはすべての分野、性質に対して存在しているわけだが、ひとまずここでは「社会に寄与することができる度合い」を軸にして仮想的にプロットしている。

※2もちろん、我々が考える「まっとうな人間」に「更正」できる可能性はある。(人間、学習能力というものもある。)しかし、受け入れる社会の構成員である我々がそのような共通認識をもてない以上、彼は非可逆的な存在として扱われざるを得ない。実態はどうあれ。

 昭和30年代にも残虐な少年事件は頻発していたとのことであるが、彼らは社会復帰しているのである。とすると犯罪の凶悪化が問題ではなく受け入れる我々市民社会の狭量化の方がむしろ問題なのかもしれない。

(Jul 2003初稿 Jun 2005改稿)