死について

死について 1


死について考える。

 病院という所は死が身近にあるところだ。
 どんなに優秀な医者でも、いや優秀であればこそ患者の死に立ち向かわないものは居ない。優秀な医師であればあるほどその分、死に瀕した重症患者を診なければいけない。そんなわけで医師としてのキャリアを積めば患者の死を体験し、従ってそれだけ新しい死に向き合うときの衝撃は相対的に薄れてゆく。

 サンプル数Nが増えてゆくとその分一つ一つのNに対する比率は減少するわけである。

 だが、患者もしくは患者の家族の側から見ると、患者の死に際しまるで『取るに足りないこと』、またさも『当たり前』であるかのように振る舞う医師は絶対に許せないだろう。緊急手術や救急外来などの場で冷静沈着に振る舞う医師は逆に安心感を与えるというのに。
 医師にとっては「冷静に仕事を行う」という意味では二つは同じ意味を持つ。だが、患者側に与える印象は全く逆となってしまう。
 

 僕らは治療がうまくいかなかった場合、時にうまくいった場合でさえ(理由は上に挙げたとおりだ)、病棟にて死に直面する。たいていの場合末期を看取る家族と一緒に。

 家族にとっては「かけがえのない人」の死であるが、医師にとっては何十人、もしくは何百人目かに目にする死にすぎない。
 実際に「死」は厳粛に受け止めても、医師から見た死は相対的に家族側からみた死よりも「軽い」。軽くならざるを得ない。そうでないと仕事にならない。
 このような二人の間にはどうしようもなく絶望的な懸隔が存在する。だが、医師はどうすればよいのだろうか。

 ぶっちゃけた話、どうしたって最後には人は死ぬ。
「ヒト」、の死亡率は100%なのだ。
昔の偉い病理学者か誰かが

『死』の直接原因は『生まれたこと』である。
といったかいわないとか。
 我々は、家族に比べて「その人の死」を重く受け止める事は出来ない。理由はもう述べた。

 だが、「その人の死」を我々にも重く受け止めて欲しいと家族が思っている事は知っている。そして、その希望には僕らは出来るだけ添いたいと思っている。

 このような命題からある結論が導き出される。

 患者さんの前での我々の態度には、まるっきり嘘では無いにしろある種の演技的行動を伴う、ということだ。
 つまり「ふり」をするわけである。

 0を10に見せることは嘘かもしれない、だが、5を10に見せることはそれほど悪いことではないのではないか、と思いながら我々は演技をする。臨終の宣告をした経験がある医師なら、誰でも同じ様な演技的というか、儀礼的な錯覚を抱いたことがあると思う。
 だが、結局欺瞞は欺瞞に過ぎない。


「客商売」とは、そういうものなのか?

 僕にはまだその答えはわからない。若輩者の私が回答するのは蛮勇というものだろう。ただ、「慣れる」のはいいが「狎れる」のはいけないのだろう。

 
 だが、ひとつだけ、家族の方は憶えていてほしい。
 いくら、医師が冷静にみえ、如何に冷酷に見えようとも、自分の担当患者が亡くなり、傷つかない医師はいない。

 しかし、それは医師の感情部分だけではない。
 患者の死に際して医師が傷つくのは彼の理性だ。

 そもそも、治療というのは、その患者の自然な状態に「介入」を加えるということである。力学的にとらえると医療行為とは「彼(=医師)の行動によって患者の状態を変化させること」と言い換える事もできる。そして彼の介入によって患者の状態は動的に変化し、結論が導き出される。その結論とは、死か、生存か、治癒か後遺か。

 だから、死を看取る際の医師の論理的解答は「私が彼にとった行動の結果、この患者はいまこういう状態に変化している」ということになる。これは正しい。しかしこれをやや感情的に翻訳すると、「殺したのは、おれだ」となる。治療開始時点から死が確実に予想される時でさえ、こういう考え方はたとえ一瞬であれ必ず去来するのである。(※)

 患者の死を家族が迎える場合、どうしようもない無力感というものはあるかもしれないが、その「死」は自分に属するものではない。いやな言い方をすると「他人事」なのである。

 しかし、医師が患者の死を迎える場合、その死は、自分の行動の結果なわけであるから自分に属するものとしてとらえなければならない。つまり、自分は肉体的には傷つくわけではないが、その死は「他人事」ではないのである。患者が死ねばその医師のペルソナは確実に傷つく。

 それは、医者にとって自分の中で処理する事柄であるから、あなた方家族の方には決して見せることはありません。

※ここに「医療過誤」の難しさがある。治療者としてベストを尽くした時でさえも、彼の治療を担当した以上我々は結果に責任を負うている。だから「お前はこの患者の死亡に直接原因したか?」といわれると、イエスと答えざるを得ない。まるで魔女裁判のように狡猾な尋問をすれば、すべての死亡事例から「医師が責任を認めた」という言質を引き出すことは可能だ。
(2000 9/8日記 改変)