養鶏場の中の風景

死について 3



 死について。または、別の形。

 薄暗い養鶏場のなか、糞や小便のこびりついた黴臭いコンクリート。その上一面に広がる白い塊が細かく動いている。ブロイラー達である。
 よく目を凝らせば、それらが正常な状態でないことが判る。

 次々と崩れ落ちる鶏のとさかは惨めにも茶色に変色し、眼球は白く濁り、最早光をとらえることはない。二・三度力なく羽ばたき、溜息をついて再び動かなくなるもの、ひっくり返って足を痙攣させているもの、床にぶつけたのだろうか、嘴から血を流しているもの、残された僅かな時間を他の弱った鶏を攻撃することで費やすもの。糞尿のこびりついた前脚がコンクリートを引っ掻く音が静寂の中に響く。

かさかさと。

 死後硬直の始まった骸は彼よりも少し幸運な者達(尤も、近いうちに彼等にも同様な運命が待っているのだが)に次々と踏みつけられ、その度にひょこひょこと体が揺れる。その動きは周りのみすぼらしい同胞達の誰よりも活き活きとリズミカルで、だが滑稽だ。

 ぎらぎらと猛暑の陽光を照り返すトタン屋根の下で動くかさついた物音は、死の音か、それともこれこそが生の音か。


 ある一定以上の高熱が続くと組織の蛋白質は凝固してもとには戻らない。残酷な、そしてあまりにも惨めな牢獄から一羽救い出しても、その鶏はもう生きられない。徐々に衰弱し、緩慢な死を迎えるまでの時間を徒に引き延ばすのみである。

だが、どこが違うのだろうか?我々の人生と?

 トタン屋根越しの太陽の熱と鶏の出す熱が鶏を殺す。

 生きていること、ただ存在するだけ、まさにそのことが周りを殺し、自分自身を死に至らしめる。ブロイラーにはひっそりと身を隠す場所もなく、独りになる場所もないが、我々も似たようなもの。

 養鶏場から出る道は余りにも遠い。死骸となって捨てられるか、屠られ食品となるか。


 真夏の養鶏場で大量熱死という記事をみて書いたような覚えがあります。