匂いと肉体:


—匂い論 その2

死について その4



 当直の翌日では医者の体臭について書いたが、今度は患者さんの匂いの話。
 

 こんなことを医者が書いてしまっていいのかどうかはわからないが、患者さんは世間一般の人々に比べてやはり「匂う」のである。

 だが、ちょっと考えてみれば当然のことだ。風邪を引くと風呂に入ることは出来ない。体調を崩したり痛みを感じると冷や汗や脂汗もかく。怪我をしたら、その箇所によっては風呂に入れない場合だってある。それに自分では風呂に入れなくなったようなご老人の方々もいる。会陰神経叢の機能低下により尿漏れやちょっとした便失禁も増える。体臭に気をつかえというほうが酷だ。(それらすべてに気を使っても、「加齢臭」というものもある。)

 逆に言えば、きちんと一日一回風呂にはいり自分の体臭に気をつかうことができるというのは、相当高い健康レベルにある人にしかできないということを我々は肝に銘じておかなくてはならない。

 インターネットを自由自在に使うようなこのページをみている若い健康な諸君、が考えるよりもいともたやすく、この美徳は失われしまう。身だしなみは病気によって簡単に損なわれてしまうのだ。
 

 「人並み」の身だしなみを維持することは案外達成しにくいハードルである。

 このことは特に医学生の方こそ常に自覚しておいて貰いたい。

 医学生というのは受験戦争でも勝者であり、また育ちのいい人間も多い。その人格形成の過程において、身の回りに「不潔」というものを体験する事の方が少ないと思う。医師になりこうした非清潔さと直面したときに、どういう反応を示すか。
(この点に関しては女医の方が分が悪いように思える)

 「勝ち組」の人間は得てして勝ち組特有の寛容さを持ち合わせているのであるが(まるで、英吉利紳士のようにだ)、臭いというものは時としてそういったうわっつらの理性など吹き飛ばしてしまう力を持っている。

 そういうものと対峙した際、我々医者が普段保護的に身にまとっている色々な属性は全て用を成さない。そう、勝ち組としての寛容さも、施療者としての慈悲も、インテリジェントな仕事であるという矜持も吹き飛んでしまう。そうして、虚飾をはぎとると、ただ一匹のホモサピエンスが一匹のホモサピエンスの匂いを嗅いでいる。健康な我々はどうしても疾病を持つ患者よりも有利な個体であるので、一個の動物対動物として対峙した場合、優位な動物が劣位の動物を見る心理機構がどうしても働いてしまうのだ。ゆえに、そこにいくばくかの軽蔑か、無感動が、全く含まれないと言えば嘘になる。「ナチュラル」であれば、そうなる。

 しかし我々は医者だ。しばし感じるそういった素朴な動物的な感情を再び治療者としての仮面の中に隠し、我々は「考える葦」に戻らなければならない。

 そこにあるのは一片の欺瞞かもしれない。しかし人はそのような通過儀礼を一度は経てこそ真の医師になるものだと思う。寛容さが揺らぐほどの衝撃をうけ、自分の中にある軽蔑を自覚し、なおかつそれを理性で凌駕する。

 私はまだ施療者として道半ばであるが、「慈悲の心」という題目や逆に「理性一辺倒」科学的精神だけでは医師としての必然性が構築できないのではないかと思っている。医療という行為は確かに神聖なものであると思うが、神聖であるという建前論や、その逆に神聖さを全く否定して厳密に自然科学であると見なしてしまうことこそがある種の欺瞞ではないかと思うのだ。このような感情の揺れを否定してしまうのは、過度の精神主義かもしくは唯物主義へ帰結してしまう危険性をはらむ。患者さんをそのように扱ってはいけない。
 

 患者さんの「汚さ」から目をそむけてはいけない。

 我々の肉体は本来汚く臭い。老いや死、糞尿、吐物や垢、汗や涙など、すべて汚いものだ。

 人は皆、死んでいく時には汚く醜い。死ぬような病変が、一皮むけた、皮膚の下には存在するのだ。もし、汚くないと言うのなら、死んだあと3日も放っておけばいい。誰も反論しないだろう。

 この「死」の状態を極点として、一方の極に若く、健康で清潔な状態を持ってくると、病や老いは大なり小なりすべて汚いものである。

 しかし今、我々は精神だけを偏重する文化に生きている。我々は、世界中の誰よりも肥大した自意識を持った歪んだ存在であることを自覚しなければいけない。

 現代の日本は、その「清潔志向」においては、先進国の中でも最も「病的」であることは知っておくべきだ。日本の社会においてスタンダードとされる清潔さというのは生物的な観点からは既に度を越している。我々の清潔志向はマクベス夫人にも劣らず、もはや病的ですらある。

 現在の日本が「極めて死を受容しにくい」社会であるのも、この清潔志向と全くの無関係ではないのだろう。
 

 そして病院というのはそうした我々の歪んだ精神構造に対するアンチテーゼをしばしば示してくれる。

 医学教育において劣った条件に置かれているにも関わらず、時に優れた看護師は並みの医師を治療者として凌駕することがあるが、それは「肉体」に対してのアプローチという点で優れた視点を持っているからにほかならないのだ。

 ポリクリの学生よりも、レジデントよりも、経験の長い医師が優れているのは、医学的な経験や知識ではない。時には、学生の方が医師よりも知識の量が多いということだって、残念ながらある。(もちろんそれは、単純にキロバイトに換算した量で比較した場合で、知識自体の揺るぎなさなどは、古参の医師が上であるが)。汚物にまみれた、もしくは汚物そのもののような患者さんをみると、経験の浅い者から脱落してゆく。逆に、たじろがずにポーカーフェイスができるならば、君は学生でも素晴らしい素質を持っているかもしれない。


(Aug 2003初稿 Dec 2004改稿)