予後予測の難しさ:


死について 6


 死亡宣告をする際、自発呼吸の有無をみる。

 もう動かなくなった患者さんの身体をずっと見ていると、動かないのに動いているように見えてくることがある。それが長時間続くと、軽く目眩というか浮動感を感じることもある。

 自分の呼吸で自分の視線が動くのを錯覚しているのかもしれないが、それは、まるで揺れている桟橋に立って居る時のようだ。


ある患者さんの話:

 重症、というか、死に瀕している患者さんがいた。

 生きるか死ぬかの瀬戸際、とすら言えない。なぜなら治療戦略からいうと、すでに死んでいるも同然であるからだった。

 

 そのおばあさんは緊急手術が必要だった。
 確かに高齢な方だった。長寿日本の平均寿命は軽く越えている。これが腫瘍の根治手術であれば、手術に対して十分な吟味が必要だっただろう。だが、消化管穿孔による汎腹膜炎となると話は別である。

 汎発性腹膜炎であることが明らかなのに、何も処置もしないということは、近い将来必ず死がおとずれるということだ。しかも至急を要する。燃えている家を前にして、消火をしようかしまいか悩むようなもので、開腹し、ドレナージしないと確実に早晩落命する。そして、その死は、特殊な事情がなければ、現在の日本では基本的には許される類の死ではない。

 外科の先生が一生懸命治療の必要性を説明するが、家族は「これ以上の積極的治療を望まない」の一点張り。私も傍らで説明のご相伴にあずかるが、「馬を水辺につれていくことは出来ても、馬に水をのませることは出来ない」という有名な成句が胸によぎる。直接本人の意向を聴くことができればよいのだが、視聴覚共に相当失われている。あれでは不在者投票だってできやしない。

 結局手術はしないこととなった。
 これが日曜日の深夜の話。

 

 ということで、点滴や苦痛をとったりの治療はするけれども、形だけのことで、高齢で全身状態も悪く、緩慢な死を迎えるのがわかっている。上がってきた血液データも目を覆いたくなる内容。アルブミンは2.2、総コレステロールは70。以前から低栄養状態であったようである。CRPはそこそこ上昇するが、もはや上がるはずの白血球すら上がらない。何しろ腹部は板状硬、左側臥位の条件の悪いX線でさえ、free-airがばっちり写っている。

 これが月曜日の話。
 一日の尿量200cc。

 血圧は上が60台から70台。脈拍は110/分くらいなのは痛みのせいか循環不全か、あるいはその両方か。

 脈拍が急に180くらいまで上昇する。家族をよんで、「もう死に瀕しています、4,5時間というところではないでしょうか」とお話してみる。本人意識なく、痛み刺激にもほとんど反応なし。

 これが火曜日の話。
 一日の尿量60cc。

 

 しかし、そのあと上昇した脈拍は一旦下がったもののまた以前のレベルに戻る。低空飛行ながら血圧も安定している。もっとも意識はもうない。なくて幸せだと思う。

 多分身体がすごく強いのだと思う。明治生まれは本当に強い。

 

 結局なくなられたのは木曜日の午前3時だった。

 しかし、ばあさんも何も朝三時に旅だたなくっても…

 家族の一人がぽつりとつぶやく。


家族にしてみれば:


 もっとも、この時間が「亡くなる時間帯」なのは臨床医であるならばよく知っている。マーフィーの法則ではないが、急変とは夜中に起こるものなのである。「自然」な治療をしていれば、この時間に呼ばれることは実に多い。

 ヤヌス医学というのを持ち出さずとも、「草木も眠る丑三つ時」という言葉は昔からある。
 

 さて、この方の場合、「今にも亡くなられそうだ」とお話したのに、実際に亡くなられたのはそれから二日後、しかもこのような時間で、家族にはすこしばつの悪い思いをした。

 確かに死の持つ重みの前には総てがかすむ。とはいえ親戚だって遠方から来るわけだし、勤めにゆく会社だってあるのだ。家族の立場からすれば「万障狂いなく」進行してほしいというのも本音であろう。

 三日、四日経ってくると家族も憔悴してくる。一緒にいると家族の気持ちが痛いほどわかる。死が近づいているということを厳粛に伝え、厳粛に受け止めた後、「それで、あとどのくらいでしょうか」と尋ねる。自分の残してきた仕事のことが頭をよぎった瞬間、顔の表情から沈痛さが消え、ビジネスマンの顔に一瞬戻る。その時点での予測(後述するようにはなはだ根拠がないわけだが)ことを伝えた後、会社の同僚などに仕事の引き継ぎの連絡を入れるため、小走りで病院の外に出て行く。

 突然の死、若すぎる死であればもちろん家族にそのような余裕はない。だが、事前から死が十分に予想されるような状況であれば、いよいよ家族を呼ぶタイミングが早いのはよくない。沢山の親戚が待機している集団の中で、周辺部から火が通ってゆくかのように、患者に思い入れの少ない、もしくは忙しい人間から順に焦り始めてゆく。顕わにしてはいけない家族の本音がちらりと顔を除かせるのを今まで何度も見てきた。

 「安楽死」というのが禁止されていて本当に良かったと思うのはこういう時だ。

 今日も様々なレベルでの『枯野抄』(芥川龍之介)的光景が枕頭で繰り広げられている。

「その時」を予測する:


 予後予測は難しい。

 家族の方は「それで、いつまでもちますか?」という質問をよく発するが、それに過不足なく答えることは至難を極める。

 癌などの年単位での生存率などは最近はきっちり統計がでているが、あくまで統計に過ぎないし、個人でのばらつきは大きすぎてあてにはならない。また、例えば、週単位、日単位での死亡が予想される状態での死亡時刻分析などを研究した論文というのはなく、はっきりした指針はないように思う。

 実際は現場の医師の経験と勘にゆだねられている。

 まったく尿が出なくなった状態というのは日単位での指標だ。末期状態で尿が出なくなった患者が一週間以上生きながらえることは難しい。

 血圧の脈拍の逆転というのは時間単位での指標だ。適切な循環管理にもかかわらず、このような状態に陥った場合、さらに24時間を生きながらえるのは難しい。

 とはいえ、ドパミンなどの昇圧剤によってこの部分は著しく異なる。おそらく何もしなければ3時間以内と思われるが、ドパミンなどを使った場合24時間近く延命が可能な場合もある。とはいえ48時間を越えた例は少ないと思われる。

 とはいえ、尿が出なくなった時点で、後戻りできない川を渡ったことはわかるが、実際になくなるのはその日であったり、5日後であったりで、それはわからない。それこそが家族のもっとも知りたがっていることなのだが。

 

 我々はゲームなどの影響か、生命力というものを「ヒットポイント」の様なモデルで捉えているフシがある。だんだん消耗したヒットポイントがゼロになったらご臨終、と。もしこういうものであれば、減りゆくヒットポイントを観測しながら、死亡時刻を推定することができるかもしれない。だが、この最期の状態というのはヒットポイントモデルではなく、ロシアンルーレットの様なモデルで考えた方がよいと私は思っている。

 毎時間ごとにサイコロを振る。一が出たらお陀仏。これを毎時間繰り返す。統計的にみた平均生存時間というものはわかるが(ポワソン分布のような曲線をえがくのだろうか)、個々の例においていつまで耐えうるかというのはわからない。この瞬間かもしれないし、12時間後かもしれない。そしてさらに状態が悪くなったら、リスクが高くなる。今度はサイコロを振って1か2がでたらお陀仏になる。だが、やはり偶然が続けば結構長い時間耐え抜いたりすることもあるのだ。ディア・ハンターのように。

 地震予報と同じように、我々は予後予測を予言できない。関東地方と中国地方、どちらが地震が起こりやすいかは言えるけれど、いつ起こるかを予言はできないのである。

(初稿 Apr. 2002 改稿 Nov. 2003)