心付け(2):


その(1)のお話:

 というお話でした。





 しかし、ここで、論調がぐっと変わります。

 では、謝礼はすべていけないのか?

 ほんとうにすべての謝礼はいけないのだろうか?

 たとえば、こんなことがありました。
 ある農家の老人が脳梗塞になりました。発症当時は不全片麻痺をきたし、呂律も回らない状態で入院しました。幸いに治療がある程度奏功し、理学療法士さんのリハビリも順調で退院時には杖を使って歩けるまでに快復しました。
 外来でも順調な快復ぶりを見せ、数ヶ月経って外来にやって来たときには日焼けして見違えるようでした。
「先生、ありがとうございます。もう畑仕事もなんとかできるようになりました。これ、退院してからうちで作った野菜ですけどよかったら貰ってやって下さい。先生に食べて貰いたいんです。」と言って、家でとれた野菜を持ってきました。

 この、喜びに満ちた謝礼を受け取るのはどうでしょうか?
 医師としての根元的な喜びにあふれたこの謝礼を。

 これに類することは二・三度ありましたが、いずれも僕は外来でありがたくいただきました。こういうことがあると医者をやっててよかったな、と思います。


 ところが、やはり規則ではこの類の謝礼ももちろん違反です。

 この野菜の場合金額に換算しても大した額ではありませんので問題にはなりません。ですが、たとえば著名な陶芸家で、その人の作品を貰ったとします、この場合は値段が値段だけに問題になるかも知れません。妬ましい同僚が告発すれば進退問題まで発展するかもしれません。

 野菜と陶芸、この二つの事例では主観的な「気持ち」としては優劣がないのは明らかです。ですが、第三者からみると時価の金額のみが重要になってきます。

 余談ですが、昔鞄を盗まれて交番に行きました。警官と応対したときに、「で、結局それは金額に治すといくらなのですかな」といわれました。その鞄の中にはノートと、何年もかけて自分で採譜したとても大切な楽譜が入っていましたが、それ以外の金目のものはなかったんです。そう説明すると警察官はフウンと鼻で返事をし、きわめてぞんざいに扱われました。非常に不愉快な思い出です。

 『なんでも鑑定団』とかも同じですよね。好意で貰ったはずのモノに市場価値をつけるというというのはいかがなものなのでしょう。我が家の古品ならいざ知らず、貰い物で値段が存外に低いのを見てがっかりする家族は、番組上仕方がないですが、なにか間違っているような気がします。

 『気持ち』と『値段』は当然ながら違いますから。

 だから、逆に、そういう「気持ちのこもった謝礼」とそうでない謝礼を法律上区別することは困難です。
 というわけで、公立病院における「謝礼:いっさいの禁止」というルールはあまりうまくはたらいていません。かなり厳密に適用する事に成功している病院もありますが、個人レベルで守られていない事例は山ほどあると思います。

 道路の速度制限と同じで、厳密に、すこしでも違反があるものを処罰すれば、8-9割の医師が処罰されるのではないでしょうか。

 原則を遵守することと規則との難しさがここにはあります。
 それは、我々の心性と規則が乖離しているからです。
 この、心性と現状の乖離を認識しない規則により、前線に立っている我々末端の医師がその心性と規則のギャップを埋めるため個人の判断を強要させられているのが現在における最大の問題なのではないでしょうか。

 (この辺も車の制限速度と同じですよね。現段階で、制限速度を守って走ろうとすると、実際の車の流れを損ね、ひどい時には生命の危険にさらされる。)






 公務員の謝礼禁止規定は、それでは悪法なのでしょうか?

 「道路の速度制限と同じで有名無実化しているのであれば、そんな法律やめてしまえばいいではないか」という意見も当然あります。

 賛否いろいろ書きましたが、しかし僕はこの謝礼の禁止に関しては賛成の立場をとりたいと思っています。

 この30年の間に医師は特権的な社会的地位をずいぶん失いました。既得権益を失うのは決して愉快なことではありません。しかしそういう特権を失って初めて、その代わりに社会の平等な成員という地位を得ることができるのではないか。医師というのが『聖職者』から『ただの人』へ着地するためにはやはり通過すべき道ではないかと思うのです。(*)

 その観点で見ると、謝礼の禁止というルールはこの30年間に医療界が獲得した健全な考え方の一つではないかと思うのです。もちろんこういった理念が浸透するのには時間がかかりますし、患者さんの間にも誤解がありますので過渡期の現在はうまくいっていませんが、あと10年・20年するとゆるやかに「医師には心付けを渡さないといけない」というコンセンサスは忘れられてゆくでしょう。

 そして、30年か40年か経ち、心づけを渡さなく「てはならない」時代が終焉した後は、感謝した人が誤解を招くことなく気軽にプレゼントをやりとりできる時代がやってくるのではないでしょうか。

(*)その特権的な利得を失い、医師の社会的地位は今までの不当に高い位置から徐々に「並」に下降を続けています。しかし、尊敬の代償として伝統的に医師に課せられていた非人間的な勤務態勢などに関しては全く変更されていないどころか、むしろ過酷さを増しているのは問題です。

 医師という仕事を「聖職」からいわゆる「普通の職業」の一つにするのであれば、職を離れた私的な時間は他の職業と同様確保されるべきではないでしょうか。その点で現在の医師はきわめてアンフェアな状況に置かれています。

 たとえば、現時点で医師がストライキを起こす、というのが想像できますか?そのような医師をトンデモナイと思うなら、医師という職務は「一般の職業」に当然与えられている権利を持たないということになります。医師はかように「道義的責任」なるものでがんじがらめに縛られています。「人の命を預かるのだから」というのは理由になりません。電車だってトラックだって長期間ストップすれば人の人生・命に影響するのですから。

 昔の人は「道義的責任」で縛られている医師に対し「尊敬」という無形の報酬や「謝礼」だとかで埋め合わせをしてきたという背景があります。その点では、いまの医師は利得だけを手放さされた格好なので、帳尻が合いません。

 勉強もよくしていますしね。



 最後に。
 「医者にとても世話になった。この気持ちをなんらかの形にしたい。」という方はおられると思います。

 そんな方はどうすればよいでしょうか?
 今の状態で、今の法規制の中で、どうすれば一番いいでしょうか?

 私が薦めるのは一つ。「手紙を書くこと」です。
 これならば絶対に罪には問われません。医師も安心して受け取ることが出来ます。

 それに、医師は最近社会的にバッシングを受けることが多く、自信を喪失していたり、傷つき疲れています。あまり社会的な尊敬も受けていません。あなたの手紙はそういう傷ついた心を癒す効果があります。使命感に燃えてはいるものの疲れている若き医師にとって、そのような手紙は今後仕事をしてゆく上で宝物といってもよい存在だと思います。

 ただし、手紙を書くということはあなたも頭を使う必要があります。
 人の心を動かす文章を書くにはそれ相応のエネルギーが必要でしょう。

 僕は、ラブレターというものを書いたことはないのですが、人を口説いたりする時には大変に神経を使いますよね。言葉は力です。言葉の持つ力をうまく人に伝えるには、やはり気持ちをこめることが必要です。金銭的な努力よりもずっと高位の努力が必要です。

 現在でこそ、日本人はエコノミック・アニマルといわれていますが、古来より日本人は言の葉(ことのは)を美しく操り、自分の気持ちを自在に乗せて相手に伝えることができる民族なのですから。

 感謝の気持ちというのは金品で換算できるものなのでしょうか?

 あなたはエコノミック・アニマルですか? たしかに、商品券や現金を渡すのは簡単です。人の心を動かす手紙を書くことは、商品券を買ってのし紙に入れて渡すよりもずっとずっと労力を要します。

 あなたに好きな人がいたとして、その人に自分の好意を表す時に、まずお金を送りますか?手紙を送りますか?
 好きな人にいきなりお金を渡したりしますか?

 好きな人の頬をお金ではたくような真似をしますか?

 考える前に答えは目の前に横たわっているはずです。 

 

 ただ、あなたの主治医を見て判断して下さい。
 手紙なんか貰ったって、何の役にもたたん。そんなことより…って、思っている医者は若い医者にはあまりいませんが、今だって確実に存在します。

 それに、私は独身医師で、独り暮らし。人生の中でもっとも金銭的に余裕のある時期です。妻子持ちの医師の多くはサラリーマンと同じでお小遣い制だったりして、貧窮しています。謝礼が欲しくてたまらない方もいるかもしれません。(だから謝礼を渡すべきだとはさらさら思いませんが)その辺は治療態度で判断して下さい。