医療不信について

 最近、医療過誤に対する訴訟(法的責任)及び道義的責任追及が騒がれています。非医療関係者の人から見ると今まであまり情報公開をしてこなかった業界の内幕が暴かれる。しかも威張りくさっている医者のミスということで、痛快に思われるかもしれません。

 勿論そういう一面もあります。しかし医療の本質をちゃんと見てくれずにただ「ミスいかん」と決めつける報道もあり、現場にいるものとしてはすこし違和感を感じることもあります。

 とりあえず、現在のこの風潮は臨床現場に影響を与えているのは確かなようです。僕ら「したっぱ医者」はもともと丁寧に応対しているので今までと変わりはありませんが、すこし年齢が上の先生のなかには微妙に接遇態度を軟化させ、現在の風潮にあわせた人もいます。また、ミス事例に対する病院単位での業務見直しもされ、少なくとも「エラー」は減る傾向にあると思います。

 これらはおおむねいい影響といえます。
 しかし、悪影響も当然あります。

 我々医療側の腰が引けているのを逆手にとって、外来で横柄な態度や怒鳴りつけたり、自己中心的な態度をとり、ゴネ得を得ている方がいます。おとなしくされている他の患者さんが押しのけられる形となり、結果的に「言ったもん勝ち」といった雰囲気を形成してしまい、外来の秩序を殺伐とさせたものにしているのです。

 これは、小学校において教師の地位が低下した結果、学級崩壊を招いてしまったのと少し似ているかもしれません。

 また、「医療過誤で訴える話」がマスコミで大きく取り上げられるようになると、医者がいくら説明しても基本的に懐疑的な態度しかとらない人達が増加してきます。診断・治療をしても反応が良くない病気というのは必ずあるもので、そうした病気の説明をするのに時間がかかりますし、結局患者さんが真に疾病に対して受容をしてくれない限り、納得が頂けることは少ない。

 で、向こうがはなからこちらのことを疑っている場合、そういう病気の説明ってとっても難しいんですよね。当然です。はなから疑っているんですから。刑事さん相手にしゃべっているような気分になってきます。自然とこちらの「説明」が「釈明」みたいな感じになって、こちらの焦りを見透かされ、余計疑わしく見えてしまいます。
 

 本来的に考えてみると、医療行為とは、無数の選択肢から疾患を選びだしそれから無数にある治療法から一つもしくは複数の方法を選択するという手法をとっています。そりゃ全例うまくいくわけがないんです。

 しかも、一生のうち最後には必ず死ぬわけです。かならず最後は勝ち負けでいうと「負け」で終わるわけです。

 それゆえに「ミス」かそうでないかの判定ほど難しいものはありません。

 医療の「ミス」というのは単純ではありません。医療が漢字練習帳の見本をなぞるが如き一本道の行為ならば、ミスの判定は簡単なのですが…

 治療とは、おそらく、人間が「存在と将棋を指す」場合の一つである。すなわち政治学。

 政治学が科学でないことは、将棋が数学に還元されないことと似ている。数学はルールを発見することを目指す——のだろう、よくは知らない。将棋はルールに従って棋譜を創造する。つまり、可能性の芸術。これは、聞いたことのあるアフォリズムだ。
(中井久夫著『家族の深淵』より『治療の政治学』の項から抜粋)
 
 医療行為というのは野球のピッチングと同じようなものだと僕は考えています。流れに従って配球を組み立て、一球一球コースと球種を考えて球を投げます。これは患者さんの置かれた状況に応じて当然変化するので、決まった黄金の方程式があるわけではありません。

 また、狙ったところに必ず球がいくわけではありません。微妙にコースをずれたりしますし、ただ、思ったところからちょっとはずれた球種がいい結果をうんだりもします。その逆でコース通りに絶好球を投げて「こりゃ打たれまい」といういい球がスコーンとも打たれることもあります。

 一つ一つの些細な選択が積み重なって、一試合が終わり、勝ち負けにつながるのだと思うのです。その過程では当然まずい配球、うまい配球も必ずあると思うんですよね。

 んで、医療過誤と言われるレベルのミスというと、それは野球でいってもよほどのミスではないでしょうか。一塁への送球が暴投になってしまったおかげで3塁走者が生還し逆転、とか、2−0から追いつかれて走者1,2塁。バッター4番に対し初球から棒玉のストレートを考えなしに放るとか、そんなレベルの。

 勝てるはずの試合がエラーで負けになったりしたら、それはやはり問題になるのかもしれません。野球でいうエラー(静注してはいけないものを静注したり、患者を間違えて肺を切っちゃったり)レベルは追求されてしかるべきです。しかし、相手の打球がライナー性の当たりで、捕れないことだって当然ある、それを忘れないでいただきたい。

 試合の結果に関してはある程度責任を持ちますが、その過程の配球に関してまでは部外者に口出しをされたくない。だが最近はこの配球にまであれこれ言う人が増えているように思います。
 
 また、最近ふえたのが、どうみても勝てない試合に負けて怒る人。
 例えば、介護施設からの紹介で入院した90歳寝たきりのおばあちゃん。誤嚥性肺炎。もう、入院の時点で3−0で負けてそうなケースです。で、やっぱり入院しても良くならない。そこで、「危篤」ということで都会の親戚が呼び戻される。
で、いままでほったらかしていた親戚が語気を荒げていうわけですよ。「なんでこんな状態なんですか!我々に納得の行く説明をして下さい!」なんて。なんでって平均寿命こえてるじゃん。

 こういう場合は、今までほったらかしにしているから、今までの流れがわかっていないがゆえに、ある種理想論に近い(つまり、すべての人は健康で、一時的な体調不良に対しては、医療を施せばたちどころに快癒する、と)ことがいえるのでしょう。また、ほったらかしていたということがある種の負い目になっているがゆえに、そういう場面(彼にとっては「この絶好のチャンス」に)で存在意義を主張したいというメカニズムも働いているようです。とても、とても、困ります。

 平均寿命を越えている場合、なぜ死ぬのか、というよりもなぜ今生きているのかという疑問の方が重要ではないかと思われる場合がしばしばあります。この疑問は決して深く考察されることはありませんが。

 それから「すべてを知る権利がある」といってすべての(ほんとにすべての)説明を求める方。ピッチャーに配球の組立の理由を全部聞いたりしますか?配球の組立方の基本からすべて説明を行うのは、はたして選手の義務なのでしょうか?(※)
 

 昨今の医療界の「叩かれ具合」を、「なんでも自分の思い通りになる」と曲解された方がおられるのは悲しいことです。確かに「これまで」と比較すればそうなんだけど、こっちにも出来ることと出来ないことがありますしね。治療のイニシアチブを握りたいのならある程度勉強もして下さい。「発掘あるある大辞典」や「思いっきりテレビ」だけじゃなく。

(※)もし医療が野球などと同じ様なものであれば、こうした治療戦略とか配球の組み立てなどをわかりやすく説明してくれる、いわゆる野球評論家と同じ立場の人間が必要かと思われます。残念ながら現在の医療に関する評論家はレベルが低すぎて話になりません。野球評論家はまがりなりにもトップレベルの野球を経験した人間がやっているので、ある程度信頼がおけますが(それでも、満足の行く評論を聞けるのは稀です)、多くの医療ジャーナリストは第一線に立てなかった(または、立たなかった)人間なわけですから。