CPCの話:


死について 5



 CPC(剖検会、とでも訳せばよいのだろうか)のプレゼンを行った。

 もっとも、それは私の担当した患者さんではなかった。担当の先生はすでに他所に赴任しており、その先生の代わりに同僚のA先生がそれを行う予定だったのだが、急な予定が入ったため、代わりに私がプレゼンテーションを行う羽目になったわけだ。つまりは主治医の代わりの代わり。

 人の代わりにプレゼンテーションをする機会が時々ある。そんなときは、プレゼンの内容以上の知識がないので、何か質問されると非常につらい。病棟医はバイトに出たりして、代理の仕事をお互いに頼むことが多いが、この手のものが一番ストレスフルかもしれない。


 んで、ちょっと緊張しながらCPCに臨む。

 だけど、そんなにつっこみどころ満載の症例ではないので、自分の担当の読み上げ原稿をつつがなく読みおえ、後はぼんやりと病理の先生のプレゼンテーションを聞いていた。

 CPCとは亡くなられた方の死因や経過を死後の組織標本から遡って検討するものなので、死因にあまり疑問の余地がない場合はややテンションが下がり白んでしまうのは否めない事実だ。

 その方は平均寿命を大きく超えた男性で、ウイルス性肝硬変。半年前に大きな肝癌がみつかり、それが元で亡くなった。TAE(カテーテルを動脈に入れ、塞栓術を行う)をしたことで肝外にせり出していた腫瘤は破裂せずにすんでいたし、病悩期間も短い。審判を受ける臨床の側としてはよくやったといってさえいいと思う。

 だけど、CPCにて各臓器のていねいな概説を聞いていると、いかにも死んだことが特別であるかのような気がしてしまう。

 人体という一個の精密機械が一つ一つ機能を失った様が組織標本には刻まれている。それを一つ一つの臓器について順番に概説される。心臓はこれこれこうこうでこれこれの所見。肝臓はこれこれこうこうでこれこれの所見。腎臓は…

 順番にくどくどと説明されてゆくと、逆に責められているような錯覚さえ抱く。これほど細かに説明してゆくというのは、この『死』という事実が議論しなければならないほど重要であるということなのだから。『何でこの人は死んだんだろう、人体という機械が壊れるに至ったんだろう。』と不思議にさえ思えてくるのだ。

 ふと我に返り、「そら臨床的には仕方がないわい」と思う。だけど、CPCというもの自体が「なぜ死んだか」という疑問を解決するためにある以上、敢えて「人は死ぬもの」という大前提を一旦白紙に戻さないと議論が出来ないのかもしれない。CPCをしていると「人は死ぬもの」という大前提を忘れてしまう。


 かくして、CPCが終わると、僕の頭には奇妙な感情が残り、思弁を開始する。

 「なぜ、人は死ぬのだろうか。」

 これはもちろん医学的な疑問ではなく、哲学的なそれである。



(初稿 2002.12.23日記 2003.May改稿)