生活習慣病とパターナリズム


—ベッドサイドのお話 4


 連休明けの外来は月曜日・火曜日の人が同時に来るのでとても忙しい。ルーチンの採血や内服薬の処方はともかく、待合いに人がひしめき診察待ちのカルテが積み上げられていると、本当はいろいろな検査を勧めたいのに、またスルーしてしまった。

 大きな病院で、やる気満々の患者さんであれば、学会が推奨するようにちゃあんと検査を行いたいが、なにせ小さな開業医の病院である。ちょっと濃厚にやれば患者さんは逃げ出してしまう。腹部の超音波などはスクリーニングで全例したいくらいだが、相手にその気がなければ出来ない。お金の問題もある。払うのは患者さんであるし、自分の体に時間と金を掛ける気がないからこそこういうところに来ているのだから。結果として検査しにくいことこの上ない。

 とにかく大学病院とは大違いである。何しろ外来で30分の待ち時間でもクレームがくる。(大学なら、受診して帰るまで半日仕事の時もあるのに!)。総じていえば、こういう小さい病院になるほど患者さんは自儘を通す傾向にある。患者の立場を尊重する、といえば聞こえはいいが、そういう人は医者の言うことをまず聞いてくれない。

 

 きちんとインフォームド・コンセントをすることが大前提であるが、もしきっちりそうしても、生活習慣病などの慢性疾患のコントロールはやはり難しい。とくに本人に治す気がまったくない場合は。

 何も悪いところがないんだけどね、
 健診で引っかかったので行けと言われて来たんだ。
 薬を出すなら飲む。
 これを飲めばいいんだな。
 酒?そりゃ飲むよ。
 食事?なるほどちょっと脂ものが多いかもしれんね。だから?
 タバコ?煙草は仕事が忙しいからやめられないなぁ。
 止める気もないしね。

 もう帰っていいか?
 じゃあさよなら。

 薬を飲みさえすれば血圧が下がるだろう、後は知らんという人がいる。まるでガソリンタンクの水抜き剤の様に、薬さえ飲めば後はオールOKだと思っている。高血圧には症状がないので、将来的な危険を説明してもどこ吹く風である。

 高血圧や糖尿病などの病気は、基本的には症状がない。しかし放置しておくと、後になってツケのように、例えば脳卒中や心筋梗塞、糖尿病性網膜症や腎症など、症状が顕在化する。ま、歯磨きをしなくてもすぐには虫歯にならないが、虫歯になってから歯磨きをしても無駄であるのに少しにている。

 慢性疾患の管理は結局過剰なものをいかに減らすかという話に帰結するが、医師のパターナリズムが全くなくなった現在、自分から治す気のない患者はまったく医者の言うことに耳を傾けなくなってしまった。

 おそらくこれは長期的に見ると経済的損失になっているのではないかと思う。そりゃ暇な主婦は健康に気を遣うことも出来るが、不況の中ギリギリの線で勤務を強いられている中年のサラリーマンこそが日本経済を動かしている。仕事人は自分の中の優先順位として、健康というのを上位に持ってくることはないから、彼らは我々の言うことを頭で理解しても、決して実行しようとはしてくれない。

 激務をこなしながら食事に気をつけなさい、運動しなさいといったってなかなか難しい。欲望を自己抑制する機構は人間にはあまり備わっていないのだから。

 力石徹だって、水を飲まないためにボイラー室に閉じこもって出てこれないように鍵をかけたではないか。

 そもそもそういう自己抑制機構が人間にきちんと備わっているなら、肥満や糖尿病高脂血症になったりはしないのだ。

 自分でなんとか出来ると思うのが間違いである。彼らにもガツンといってやる誰かが必要ではないかと思うのである。だが、今の風潮では、社会はそれを医者にさせる気はないらしい。



民主的な関係と自制が必要な疾患


 これでもまだ足りないと不満な方もおられるとは思うが、公平に見ると、現代ほど医者と患者の関係が民主的に樹立されている時代は今まで無かったといえよう。

 だが、生活習慣病という、現代の宿痾とでもいうべき疾患は、他の疾患にもまして、治療にはパターナリズムが必要ではないかと思う。

ああ、伝家のパターナリズムを抜きたい。いつもそう思う。

 生活習慣病の原因は生活そのものである。もの凄く簡単に言うと、食事の過剰と運動の過小だ。基本的に、現代は過剰であり、過剰が故に病気が発生していると考えてよい。

 ゆえに、その治療とは、生活習慣を変えて過剰なものが過剰でなくなり望ましい本来の状態に戻ることなのだが、こんなことは医者に言われるまでもなく皆わかっている。頭でわかっていても実行するのは難しいわけで、大切なのはそれを守らせることであるが、そんなもの自分で出来るなら最初からそういう状態にはならん。自分の頭が体全部を支配できる、なんてのは近代的自我の幻想で、生活習慣病というもの自体が、そうした「頭によるコントロール」と実情との解離に他ならぬ。

 そういう場合、自制的に行うあらゆる努力よりも、外的な圧力の方が実はもっとも効力がある。そう言う点で昔の「怒鳴りつけるタイプの医者」は慢性疾患の水先案内人としては意外と有用である。もっと見直されてもよいかもしれない。

 「最近の先生はみんな優しいですわねぇ」と言った年配のご婦人の常連の患者さんに対し、

 「ふん、今の医者は、みんな腰抜けよ。だれも責任をとろうとしゃあせん。神様になろうとするやつがおらんなってしまった」と私の師匠は言った。

 確かにそうで、現代人は医師をご託宣とするよりも『あるある大辞典』をはじめとしたテレビ番組を神様にしてしまった。

 

 でも、テレビの神様は嘘を言う。
 これを食べれば体によいとか、そういうことをいうのは、産業界のひも付きだからだ。健康食品の直接的な宣伝こそしないが、視聴者が極めて健康食品を受け入れやすいような精神構造を作るように誘導している。

 何か栄養素が足りないから生活習慣病になるわけではないのである。よく考えてもみよ。生活習慣病は過剰、つまり足し算で起こる病気だ。足し算が重なってなった病気が、足し算で治るわけがないではないか。生活習慣病を治すのは基本的には引き算である。食べる食事を減らしなさい、脂を減らしなさい、運動しなさい。全部引き算。

 (これは実際に外来でよく言っている。私の気にいっている外来フレーズの一つだ。)

 しかし、外食に行って贅沢なものを食べるのもやめなさい。インスタント食品もやめなさい。車を買うのもやめて出来るだけ歩きなさい。と言えば、スポンサーである企業が怒るから、テレビはそう言えない。スポンサーは商品が売れることが一番。一体全体、皆、テレビが視聴者の健康を本気で心配してくれている、と本気で信じているのか。

 正直に言うと、我々が組み込まれている大いなる経済のサイクルは、我々の体がどうなろうと、問題ではないのだ。我々がもし本当に必要なカロリーだけを摂取するようになれば、食品産業は壊滅する。皆が車を使わなくなると、日本の産業の根幹の一つである自動車だってダメだ。むしろ我々の疾病自体が経済のサイクルに組み込まれている事だってあって、こうした生活習慣病に対する予防医学だとか、医療機関や製薬会社は経済の中でも無視できないような地位を占めている。

 我々が本当に勧告通りに食べる量を減らし、健康になってしまうと実のところ誰かが困る仕組みになっているのだ。

 ゆえに、日本経済のためには我々はクソ高く無意味に栄養に富んだ食事をし、肥満や癌の心配をし、人間ドックにかかり、あるある大辞典をみてスーパーに買い物に行ったりサプリメントを買って飲んだり、高血圧になって血圧の薬などをのんだり、挙げ句の果てに脳卒中になって介護保険を使う羽目にならないといけないのである。

 

 もちろん、生活習慣病は栄養素の過剰摂取からのみ起こるわけではない。

 だが、現在蔓延している生活習慣を否定せず、その上で対策を行うとすれば、たとえば抗酸化ビタミンで各種免疫力を高めたり、動脈硬化を予防したり、降圧薬によって血圧を下げたりすることが、合併症を予防するために唯一無二なことであると言えるかもしれない。

 だがもし食事の過剰と運動不足を解決することができれば、それだけで疾病そのものの多くが消失する。

 だが、そうはならないのは、我々の社会は生活そのものを否定し、それを訂正し、後戻りする能力を持っていないからだ。生活習慣病を指摘されたときに今ある生活を後戻りさせるも「これこれこういう薬がある」とか「この食品を食べればよい」とか、とにかく新しいものを付け加えたがる。

 引き算は決して出来ないのだ。


消費行動の無謬性


 我々は今我々が無意識に送っている日常生活を否定されるのを喜ばないし、まずその事実を認めようとしない。我々小市民は自分の消費行動自体が無謬であるという前提で生活している。我々の生活自体に問題があると指摘されることに対して、我々はしばしば過剰に反発する。それを指摘された場合、多くの人は忠告とは受け取らず侮辱と受け取る。

 ワイドショーなどの大衆報道ではたとえば事件報道などで「『何の罪もない』○●さんが…」という言葉を使うが、多くの日本人やアメリカ人は生活しているだけで地球環境にとっては罪である。

 これは、我々が生きているこの世界が資本主義、市場主義によって動かされていることからくる。消費者は無限の自由を持ち、責任を問われることはない。常に消費者が選ぶ商品、会社が勝者であり、正しいものとされるのが市場主義だ。消費者は常に正解を選び出す。選ばれたものが正解になる。

 もっとも、これはドグマに過ぎない。

 市場主義が蔓延して久しいので、我々はこれに疑問を抱かないが、こうした"As you Like"的なライフスタイルこそが生活習慣の素因になる。消費者としての我々は決して反省を求められることはない代わりに、自らの体を持ってそれを償っている。

 今の消費者はまるで王様のごとくであるが、古来より暗愚な王様は贅沢に押しつぶされて早死にしていたのが常ではなかったか。


 ところで、こういう風に生活習慣病は過剰な、誤った生活習慣によって起こるわけであるが、新米治療者の陥りやすいのは、生活習慣病患者をそうした自己コントロール能力の欠如した人間として扱いたがることだ。つまりは患者を(道義的に)裁きたがる治療者。

 上に挙げた事柄は完璧に真実ではあるが、では、個々人が、その真実を受け入れるかというと、それはまた別の話。

 「あなたのライフスタイルは間違っている」
 絶対的には確かにそうだ。ただし、人は多くの場合、相対的なものとして受け取る。
 間違っている……!?
 隣の、スナック菓子ばっかり食べてるデブや、むちゃくちゃ酒のみのあいつ、たばこ臭いあいつよりもいけないというのか……!?
 そんなばかな!

 いや、確かにそうなんだけれども、生活習慣病の程度と生活のひどさは必ずしも相関しない。確かに同じ人間を較べてみれば運動しないほど、食事は高カロリーで高脂肪になればなるほど、生活習慣病の程度はひどくなる。だが、別の人間を較べる時に同じ論法を用いてはいけない。かなり高いコレステロールの人と、ほどほど高い人をくらべて、しかしほどほど高い人の方が食生活としては高脂質である、とかそう言う例はごまんとある。

 現代では、ほとんどすべての人間が生活習慣病になってもおかしくないような食生活をしている。だが、そのなかに高カロリーや高脂肪に耐性の低い(おそらくさまざまな遺伝的な素因によって)人はいて、そういう人が不運なことに生活習慣病になっていると考えるべきだろう。

 「食べ過ぎ?いや、そんなことはないですけどねぇ」という人に対して、

 「いや、そうはいっても、江戸時代の人よりは食べてますからねぇ」といつも私は言う。これも好きなフレーズの一つだ。

 勝ちは偶然、負けは必然。
 生活習慣病になっていない人は、そういう生活をしながらも運良く発症せず、なっている人はそういう生活がゆえに発症する、そのように考えなさい。なぜなら、そういう風に考えて初めて、生活習慣病に対する慈悲が生まれるからである。

 大体、我々も医者の不養生である。

 生活習慣病の人を道義的に裁く権利など、我々にはないのだ。