場依存型な私と適性:


—研究をするに際しての苦悩(その2)


 テキスト人の間でちょっぴり流行っているファンタジー職業占い、実は僕もやってみた。
 あ、これ、2004年2月の話である。
ファンタジー職業適性診断
戦士レベル -3 あきらめましょう
盗賊レベル 4 天性の才能あり
僧侶レベル 4 天性の才能あり
魔法使いレベル -1 努力すればなんとか

 占い師「そなたに最も似合う職業は、相手と自分の感情だけを見て動く『吟遊詩人』じゃ。盗賊の『インパクト』と僧侶の『調和』『優しさ』を併せ持つタイプじゃな。感情表現が強く、企画や交渉に向く。相談を聞いて解決策を出すことができるところが特徴じゃ。相手の裏を読むことや、感情を無視した駆け引き、ポーカーフェイスが苦手なようじゃの。

 時間には限りがあるのだから、頼まれたことを全部やろうとは思わないことをお勧めするぞ。」

(職業メモ)表世界の交渉では最強。歌に魔力があったり、弱い魔法を使えたりすることも多いが、攻撃の役には立たないことが多い。

 結果を見てしばらく考えこんでしまったのは、なんとなく今自分が漠と考えているイメージに近かったからかもしれない。

 僕がほんとうにやりたいことというのは、いったい何なんだろうか。
 最近このことばっかり考えている。
 

 僕は今、臨床という現場を離れて臨床系講座に在籍しつつ基礎実験に従事している。が、長期的にみると、今やっていることはギャンブルに近い。昔はそうではなかったけれども、時代が変わり風向きが変わったのは確かだ。少なくとも僕に関する限り、そう思いながら日々を過ごしている。

 臨床系の講座における基礎実験は実に中途半端だ。分子生物学をやって名を馳せるにはちょっと薹(トウ)がたっているし、基礎講座の人間に比べると時間も少ない。だいたい基礎にいる医学部の人間だって、理学部卒の分子生物学者に比べるとハンデがあるのだ。臨床講座の基礎では言わずもがな。正直にいって、分子生物学者としてやって行くにはハンデがありすぎる。年齢も、知識も。

 そうこうしている間にも、市中病院にいる僕の同級生は着々と臨床のレベルアップをしている。今いるバイト先ではプライマリーメディシンはなんとか維持できるかも知れないが、消化器の専門領域に対してはお粗末なものだ。そういう医療を提供せざるを得ない自分が恥ずかしくてたまらない。二足のわらじを履くと言えば格好はいいが、両立するのは、率直にいうと、自分の力量を越えているように思う。

 学生の頃は、「勉強」というと、何を勉強しても許された。内容はともかく、勉強さえすれば肯定された。だが30を過ぎると勉強の量ではなくベクトルを問われるようになった気がする。あ、まだ30は過ぎてないけどな。

 野球選手と同じなのかも知れない。
 少年の頃はやまほどボールを持って投げて打って走っていればよかった。野球に浸淫することが自然に『地肩』を作ってくれるからである。だが、プロに入り、折り返し地点を過ぎれば誰しも、肩や膝など体のパーツには寿命があることに気づく。有限性を自覚した後はトレーニングの方法を変えざるを得ない。沢山の選択肢からたった一つの正解を選び出す作業。好き勝手にやって来た今までの経験を踏まえ、自分に合ったわずかな正解を、自分の中に蓄積された記憶からすくいあげる作業。もちろんトレーニングしないのは論外であるが、トレーニングではあくまでトレーニングである。結果を出さなければ評価されない。そういうもろもろの障害を乗り越えて、35を越えてピッチャーを続けられる人間を、僕は本当にすごいと思うのだ。

 時間というものを限られた現在の状況では、私の勉強に関してだって同じだ。勉強さえすれば良いというものでもない。基礎での業績というのは、一生基礎でやっていく覚悟がない限り、ほとんど意味を持たない。途中から臨床の道を歩むのであれば深入りすればするほど不利になっていく。大学にはそのような人生を歩んだ人の残骸のような残りの人生がごろごろしている。概して悲惨だ。少なくとも幸せそうには思えない。

 そういうものを見つめ、それを踏まえてまでも、基礎に賭けることが出来るか。基礎を愛することが出来るか。
 知的好奇心はある。論文を読んでも、実験をしても面白い。だが、それは基礎に賭ける情熱と等価なのだろうか。
 本当に僕はこれが好きでやっているのか。

 これは、本当に僕のしたいことか?

 医局に「僕の居場所」というものを確保するために、ここにいるのではないか?


 昔から班分けをしたり、スポーツ大会でやりたいことを決めたりする時も、自分が本当にしたいことなどはなかった。ただ、全体の状況をぼんやりとみていて、自分が必要とされそうな場所で、なおかつ人と競合しない部分へそっと潜り込むような子であったのだ。

 基礎実験をやっているのは結局僕がやりたいのではなく、医局の中の立場とか人員の適性とかを考えた上で僕の内なる声がそちらに向けているのかなぁ、と思ったりもする。今実験をやめろといわれても、多少残念さは感じつつも、あまり未練なく素直に従ってしまうだろうという確信が僕にはあるのだ。

 吟遊詩人か…

 絶対性よりも人と人との関係性。

 僕は昔から、本当にしたいことは押し殺して生きてきたし、そういう生き方を続けてきたあげく、今では自分の内なる声が発する「やりたいこと」はもう、聞こえてこない。

 実在感の喪失。

 それでも乗り切ってこれたのは、自分で言うのもなんだが、現実適応能力に優れているからではないかと密かに思っている(そもそもが、そういうことを要求されるおかげで、そういう能力を獲得せざるを得なかったと言えなくもないが)。だが、所詮自らを騙しているような気がする。30間近になって、自分の人生の折り返し地点にさしかかった今では、余計にそう思うのである。

(Feb 2004初稿 Aug 改稿)